梁書卷一 本紀第一 武帝上
南朝梁の建国者、高祖武帝蕭衍(字は叔達、464–549年)。漢の相国蕭何の後裔で、斉に仕えて雍州刺史となり、東昏侯の暴政下で挙兵して建康を攻略、東昏侯を誅殺した。斉から禅譲を受けて梁を建国した簒奪者にして創業の主。本巻は挙兵から即位に至るまでの前半生を描く。
年表(8件)
- 大明八年464年秣陵県同夏里三橋の邸で生まれる
- 建武二年495年義陽で魏軍を表裏から挟撃し撃退する
- 建武五年498年明帝が崩じ東昏侯が即位、政局混乱の中で雍州刺史を授かる
- 永元二年500年長沙王懿誅殺を機に襄陽で挙兵を決意し軍備を整える
- 永元三年(中興元年、)501年襄陽を発し建康へ進撃、離間策で劉山陽を排除する
- 永元三年(中興元年、)501年十二月、東昏侯が部下に斬られ首を送られる
- 中興二年502年相国・梁公を経て梁王に進封される
- 中興二年502年斉の和帝から禅譲を受け入れる
出自と生い立ち
- 高祖武皇帝、諱は衍、字は叔達、小字は練児。南蘭陵中都里の人。漢の相国蕭何の後裔で、系譜は何―延(酇定侯)―彪(侍中)―章(公府掾)―皓―仰―望之(太傅)―育(光禄大夫)―紹(御史中丞)―閎(光禄勲)―闡(済陰太守)―冰(呉郡太守)―苞(中山相)―周(博士)―矯(虵丘長)―逵(州從事)―休(孝廉)―豹(廣陵郡丞)―裔(太中大夫)―整(淮陰令)―鎋(済陰太守)―副子(州治中)―道賜(南臺治書)―順之(皇考)と続く。
- 父の順之は斉の高帝の一族で、佐命の功により臨湘県侯に封ぜられ、侍中・衛尉・太子詹事・領軍将軍・丹陽尹を歴任し、没後に鎮北将軍を追贈された。
- 高祖は宋の孝武帝大明八年(464年)甲辰の歳、秣陵県同夏里三橋の邸で生まれた。生まれつき両骻に駢骨があり頂上が隆起し、右手に「武」の文様があったという異相を伝える。
- 成長すると博学多通で籌略を好み文武の才幹を備え、時の人々から推許された。巴陵王の南中郎法曹行参軍として出仕し、衛将軍王儉の東閣祭酒に遷ると、王儉は深くその器量を認めて「この蕭郎は三十歳前に必ず侍中となり、それ以降は貴きこと言うに及ばない」と評した。
- 竟陵王蕭子良が開いた西邸に文学の士として招かれ、沈約・謝朓・王融・蕭琛・范雲・任昉・陸倕らとともに交遊し「八友」と号された。とりわけ王融は高祖を敬異し「天下を宰制するのは必ずこの人である」と語った。
- 累進して隨王鎮西諮議参軍となるが、父の喪により去職。隆昌初、明帝輔政のもとで寧朔将軍に起用され壽春に鎮し、服喪明けに太子庶子・給事黄門侍郎となって殿省に入直、蕭諶らの帝位定策の勲により建陽県男に封ぜられ食邑三百戸を得た。
建武二年(495年)
- 魏が劉昶・王肅を遣わして司州に侵攻すると、高祖は冠軍将軍・軍主として江州刺史王廣に隸属し、義陽の後方百余里の地で援軍を務めた。魏軍の勢いを恐れ諸将が進撃をためらうなか、高祖は自ら先鋒を志願し、王廣から精鋭を分けられて夜のうちに進軍、魏軍の数里手前まで賢首山を経て至った。
- 魏軍は寡衆を測りかね黎明まで攻めきれず、城内の援軍到来を見て出撃し魏の柵を攻めた。高祖も外側から進撃し、魏軍を表裏から挟撃して包囲を解かせて退却させた。
- 戦後、高祖は右軍晉安王司馬・淮陵太守に転じ、のち太子中庶子・領羽林監を経て石頭に出鎮した。
建武四年(497年)
- 魏帝が自ら大軍を率いて雍州に侵攻。明帝は高祖に赴援を命じ、十月に襄陽に到着。さらに左民尚書崔慧景を総督とし、高祖および雍州刺史曹武らはその節度を受けた。
- 翌年(建武五年)三月、慧景と高祖が鄧城に進むと、魏主が十万余騎で急襲。慧景は色を失い退却しようとしたが、高祖が固く止めても聞き入れず狼狽して撤退したため、魏騎に乗じられて大敗した。高祖は独り部衆を率いて防戦し数十百人を斬り、魏騎をやや退けて陣を立て直し殿を断って夕方には船に至り、慧景軍が死傷ほぼ全滅するなか高祖のみ全軍を率いて帰還した。
建武五年(498年)― 東昏侯の即位と政局の混乱
- ほどなく高祖は雍州府事を行い、七月に持節・都督雍梁南北秦四州・郢州の竟陵・司州の隨郡諸軍事・輔國將軍・雍州刺史を授けられた。同月、明帝が崩じ東昏侯(廃帝寶卷)が即位。揚州刺史始安王遥光・尚書令徐孝嗣・尚書右僕射江祏・右将軍蕭坦之・侍中江祀・衛尉劉暄の六人が交代で内省に宿直し勅を分掌した。
- 高祖はこれを聞き、従舅の張弘策に「政、多門より出ずればその階を乱す。『詩』に『一国三公、吾誰にか適従せん』というが、いま六人もいてどうしてよいのか。嫌隙が生じれば互いに誅滅し合うだろう。今は禍を避けるべき地はこの地しかない。仁義を行えば座して西伯の徳を成しうる。ただ弟たちが都にいるのが心配で、益州の兄と諮る必要がある」と語った。
- 折しも長兄の懿は益州刺史の任を終えて還り郢州事を行っていたため、弘策を派遣して献策させた。弘策は懿に、晋の惠帝の乱以来の教訓を引き、いま六貴が権を争い各々が勝手に勅を発している以上、必ず大誅戮が起こると説き、江祏は怯而無断、劉暄は弱而不才、蕭坦之は猜忌に富み、徐孝嗣は柱石の才に非ずと各々の短所を分析。今のうちに諸弟を集めておくべきであり、郢州は荊湘を控え漢沔に注ぐ要衝、雍州は数万の兵馬を有し、天下の治乱に応じて進退できる「万全の策」だと説いた。
- しかし懿は変色してこれを許さず、弘策は空しく帰還。高祖はやむなく弟の偉・憺を招き寄せ、この年のうちに二人は襄陽に到着した。高祖は密かに器械を造り竹木を檀溪に沈めて船の準備を進めた。当時その居室にはしばしば五色の雲気が回転し、蟠龍のごとく紫気が繖蓋のように立ちのぼる様が見られ、見る者はみな異とした。
永元二年(500年)― 兄懿の死と挙兵の準備
- 冬、長沙王懿が誅殺されたとの報せが届くと、高祖は密かに長史王茂・中兵呂僧珍・別駕柳慶遠・功曹史吉士瞻らを召して謀議し、十一月乙巳、僚佐を庁事に集めて「昔、武王が孟津に会したときも皆『紂を伐つべし』と言った。今、暗主が悪をなし窮虐が極まり朝賢を誅戮し尽くし、遺されし者もほとんどない。天命これを誅す。卿らは共に義挙を興し、公侯将相はまさに今日にあり、各々勲効を尽くせ。我は食言せぬ」と告げ、その日のうちに建牙。甲士一万余人・馬千余匹・船三千艘を集め、檀溪に沈めていた竹木で艦船を装備した。
- 一方、東昏は劉山陽を巴陵太守とし精兵三千を配し、荊州を経由して襄陽の高祖を襲わせようとした。高祖はこの謀を知り、参軍王天虎・龎慶国を江陵に遣わして州府各所に書を配らせ、山陽が西上する前に手を打つ。高祖は「用兵の道は攻心を上となし攻城を次となす。心戦を上となし兵戦を次となす」との方針を語り、天虎の書状を意図的に不自然な体裁にすることで、荊州側(蕭穎冑兄弟)と山陽との間に相互不信を生じさせる離間策を用いた。
- 果たして山陽は江安まで来て疑い進めなくなり、蕭穎冑は恐れて天虎を斬りその首を山陽に送って信を得ると、山陽を城に誘い入れて伏兵で斬り、その首を高祖のもとへ送った。
- 高祖は南康王(蕭寶融)を尊号に推す議を穎冑らに告げたが、穎冑は「時期がまだ良くない、来年二月まで待つべき」と答えた。高祖は「今、十万の兵を擁して糧は尽きかけている。義心一時の鋭気を頼みにしているのに旬をまたげば必ず悔いを生む。太白が西方に出ており、義に仗って動くのに天時人謀ともに不利はない。事が定まった以上、中途で止めるべきではない。昔、武王が紂を伐つのに逆歳であっても年月を待たなかった」と説いて反論した。
- 竟陵太守曹景宗は杜思冲を遣わして、まず南康王を襄陽に迎え尊号を正してから進軍するよう勧めたが、高祖はこれにも従わなかった。王茂も張弘策に「もし南康を人手に委ねれば、彼らが天子を挟んで諸侯に令することになり、こちらが人に使われる立場になる」と私見を漏らしたが、高祖は「もし前途が成らねば、蘭も艾も共に焼かれるまでのこと。功業が成れば天下に令して従わぬ者はない。碌々と人の指図を受ける道理はない。石城に至れば王茂・曹景宗に直接説くつもりだ」と答えた。
永元三年(中興元年、501年)― 建康攻略と東昏侯の誅殺
- 二月、南康王が相国となり、高祖は征東将軍・鼓吹一部を与えられた。戊申、高祖は襄陽を発し、弟の偉に襄陽城守と州府事総括を、憺に壘城守を委ね、府司馬荘丘黒に樊城守、功曹史吉士詢に長史兼任、白馬戍主黄嗣祖に司馬兼任、鄀令杜永に別駕兼任、小府録事郭儼に転漕を委ねて出陣。京邑に檄を移し、東昏の悖徳・虐政(梓宮在殯にもかかわらず歓娯遊宴し、妃嬪姉妹の別なく寵幸を極め、劉鎮軍・江僕射・蕭領軍・徐司空・沈僕射ら忠良の大臣を誅滅し、蕭穎冑らへの襲撃を謀ったこと等)を数え上げ、天下に義兵の正当性を訴えた。
- 高祖は竟陵に至り、長史王茂・太守曹景宗を前軍とし、中兵参軍張法安に竟陵城守を委ねた。王茂らは漢口から輕兵で渡江し郢城に迫るが、刺史張沖の抵抗で軍主朱僧起が戦死。諸将は郢城包囲と西陽・武昌への分兵進撃を議したが、高祖は「漢口は幅一里に満たず矢の届く距離にあり、房僧寄の重兵で固く守らせて郢城と掎角の勢をなす。もし全軍で進めば背後を断たれる恐れがある」と述べ、王茂・曹景宗に済江させ荊州軍と合流、自らは魯山を囲んで漕運を確保する策を採った。諸将これに従い、王茂・曹景宗は張沖の出撃を大破。荊州の鄧元起・王世興・田安らも夏首で合流し、高祖は漢口城を築いて魯山を守った。
- 三月、南康王が江陵で帝位に即き(和帝)、永元三年を中興元年と改め、東昏を涪陵王に廃した。高祖は尚書左僕射・征東大将軍・都督征討諸軍事・仮黄鉞を加えられた。四月、高祖は沔を出て郢城に迫り、五月、東昏は呉子陽らを遣わして郢州救援に向かわせた。六月、席闡文が勞軍に訪れ、蕭穎冑らは魏に救援を求める議を提案したが、高祖は「漢口は荊雍と秦梁を結ぶ糧運の要路。今分兵すれば魯山の防が崩れ糧運が絶える。北面して魏に救いを求めれば自ら弱を示すだけで、彼らが本当に信じるとも限らない」と退けた。
- 七月、王茂・曹景宗・康絢・武会超らが加湖を襲い、呉子陽軍を潰走させた。郢城・魯山城の程茂・薛元嗣・張楽祖が相次いで降伏し、疫病で兵民の死者は十のうち七、八に及んだが、高祖は生存者を撫恤し死者に棺槥を給した。江州の陳伯之は伯之の子虎牙が逃げ帰った動揺に乗じて降伏へと動き、司州刺史王僧景は子の貞孫を人質に出して帰順した。
- 八月、和帝は蘇回を遣わして労軍し、高祖に東夏平定と便宜従事の権を与えた。九月、鄭紹叔に江州城を守らせ、前軍は蕪湖から姑孰・新林を経て建康に迫り、朱雀航では王珍国・胡籍らの精鋭十余万と激戦、王茂・曹景宗らが勝利し東昏軍は淮に投じて多数溺死した。十月、東昏の朱僧勇や李居士・徐元瑜らが相次いで降伏し石頭・白下の諸軍も潰走。高祖は石頭に鎮して六門を包囲した。
- 十二月丙寅、兼衛尉張稷・北徐州刺史王珍国が東昏を斬り首を義軍に送った。高祖は呂僧珍に命じて府庫・図籍を封じ、嬖妾潘妃および凶党王咺之ら四十一人を捕らえて誅した。宣德皇后の令により涪陵王は東昏侯に格下げされ、高祖には中書監・都督揚南徐二州諸軍事・大司馬・録尚書・驃騎大将軍・揚州刺史・建安郡公(食邑万戸)・班劒四十人・黄鉞・侍中・征討諸軍事等の殊礼が加えられた。
- 己卯、高祖は閲武堂に入って布告を発し、王咺之ら四十一人を除いて天下に大赦し、永元年間の苛政(頻繁な徴発・繁苛な刑罰・宮室の濫造等)を批判して悉く除蕩することを命じ、義師の戦没者・病没者の埋葬・遺孤の扶助、建康攻防戦での戦没者への特別な弔いを定めた。
- 翌年(中興二年)正月、和帝は席闡文・楽法才を遣わして京邑を慰労し、高祖の祖父母・父に散騎常侍・左光禄大夫、侍中丞相を追贈した。高祖は改めて令を発し、永元期の奢侈・淫刑・鬻爵の弊風を糾弾し、質素倹約を自ら卿士に先んじて実践する旨を宣言した。
中興二年(502年)― 相国・梁王への進位と禅譲
- 戊戌、宣德皇后が臨朝し内殿に入って帝を拝し、大司馬の称制を解いたが、百僚が高祖に致敬することは以前の詔のままとされ、高祖は都督中外諸軍事・剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名等の殊礼を加えられ、左右長史・司馬・従事中郎・掾属各四人を置くことを許された。
- 続いて下された詔は、高祖の功績を列挙する形式で述べる。すなわち、永明末年の辺境の乱を鎮めた功、隆昌の政変で廃立を定策した功、建武年間に戎狄の侵攻を撃退した功、鄧城の敗戦で散卒を収めて雕騎を防いだ功、漢南の危機に藩鎮を固めた功、東昏誅滅に至る義挙の一連の功(郢州・魯山の攻略、加湖の勝利、姑孰・京邑攻略、東昏誅殺)を「これまた公の功なり」と繰り返し称え、進んで相国とし揚州刺史を牧に改め、豫州の梁郡・歴陽、南徐州の義興、揚州の淮南・宣城・呉興・会稽・新安・東陽の十郡を封じて梁公とし、璽紱・遠遊冠・相国緑綟綬を加え、驃騎大将軍以下は元のままとした。
- あわせて九錫の礼(大輅・戎輅、玄牡二駟、衮冕の服、軒懸の楽、朱戸、納陛、虎賁三百人、鈇鉞、彤弓彤矢盧弓盧矢、秬鬯圭瓚の各品)を賜る策文が発せられた。高祖は府僚の勧進に対し繰り返し辞退したが、府僚は「大宝・公器は要でも拒でもなく、至公至平のものである。当仁の者が誰かに譲るべきものではない」と重ねて上表し、二月辛酉に至って高祖はついに相国・梁公の命を受けた。
- この日、東昏の淫奢な異服六十二種が都街で焼かれ、湘東王寶晊の謀反が発覚し賜死。追贈により故夫人が梁妃とされた。南兗州隊主陳文興が桓城内の井戸から玉鏤の騏驎・金鏤の玉璧・水精環各二枚を得たと報告され、建康令羊瞻は鳳凰が県内の桐の木の下に現れたと解し、これらの祥瑞は宣德皇后によって相国府に帰せられた。
- 梁国の初建にあたり、高祖は選官制度の弊害を上表した。すなわち、「言を以て士を取れば士はその言を飾り、行を以て人を取れば人はその行に竭くす」として、近年の選任が門地や譜牒の詐偽・冒襲によって歪められ、真に隠れた才が埋もれている実情を批判し、選曹が旧来の選簿の制を精しく整え、甲族は二十歳、後門は三十歳を過ぎねば出仕できないといった年齢制限の不合理も指摘して改革を求めた。この上表は詔により施行された。
- 丙戌、詔により梁公の爵は王に進められ、豫州の南譙・廬江、江州の尋陽、郢州の武昌・西陽、南徐州の南琅邪・南東海・晉陵、揚州の臨海・永嘉の十郡が益され、あわせて二十郡が梁国に封ぜられた。相国・揚州牧・驃騎大将軍は元のままとし、高祖は固辞したが詔により上表は取り上げられず、相国左長史王瑩ら百僚が重ねて敦請した。
- 三月、延陵県華陽邏主戴車が甘露・毛亀・白麞・龍形の雲気などの祥瑞を相次いで報告し、癸巳、高祖は梁王の命を受け、令を発して国内殊死以下の罪人を赦し、鰥寡孤独への穀物給付を命じた。丙午、王冕十二旒・天子旌旗・金根車・六馬・副車・旄頭雲罕・八佾の楽・鐘虡宮懸等、天子に准じる儀制が定められた。
- 丙辰、斉帝は梁王に禅位する詔を発した。詔は、斉の徳が衰え永元の昏暴が甚だしく宗廟が危殆に瀕したなかで、梁王が天誕の睿哲によって九区を再び緝め四維を立て直した功績を称え、天命は常主なく帝王は一族に限らないとする理を述べて、姑孰にて唐虞・晋宋の故事に依り禅譲することを告げた。四月辛酉、宣德皇后も令を発し、明帝憲章前代の故事に依り帝位を梁に譲り、璽紱を恭しく授けさせる旨、また皇后自身は別宮に退く旨を定めた。
- 壬戌、禅譲の策文が発せられ、太古以来の帝王継承の理から説き起こし、四百年続いた漢が黄徳に譲り、魏がまた晋に譲り、宋斉に至るまでこの典が弘められてきた例を挙げ、梁王の功徳が古今に比類なく、天命の帰する所であるとして帝位を授ける旨を述べた。あわせて発された璽書も同趣旨で、天下は一族の私物ではなく、河図洛書の符瑞、虞舜が堯より受け殷が周に受けた故事を引き、梁王への禅譲の正当性を重ねて説いた。
- 高祖は抗表して固辞したが上表は取り上げられず、斉の百官豫章王元琳ら八百十九人および梁台の侍中臣雲ら百十七人が揃って勧進の表を上げた。それでも高祖は謙譲して受けず、太史令蔣道秀が天文符讖六十四条を陳べ、群臣が重ねて固く請うたため、ついにこれに従った。