兩晉演義第九十三回 愛妻を葬るも変に遇い身を喪い、猶子を立て臨終に位を伝える (葬愛妻遇變喪身 立猶子臨終傳位)

赫連勃勃の南涼侵攻

  • 舅を殺した赫連勃勃は南涼の禿髮傉檀に求婚したが拒まれ、二万騎で南涼を攻めて大勝、髑髏で塚を築くほどの惨状となった。

西秦・南涼の内紛

  • 西秦主乞伏乾歸は後秦に取り込まれ、子の熾磐が監視役となった。南涼の傉檀は密かに後秦に叛こうとしたが密使が殺され発覚、姑臧に人民を移して防備を固めた。内部の謀反も未然に鎮圧され、南涼はかろうじて存続した。

後燕・慕容熙の暴政

  • 慕容熙は苻氏姉妹を寵愛し、大規模な宮殿・苑地の造営に人民を酷使した。政務まで二人の女性に委ねるほどの溺愛ぶりだった。
  • 大蛇の怪異ののち、姉の苻昭儀が病没。治療にあたった医師は責任を問われ処刑された。
  • 高句麗遠征や契丹討伐に苻皇后(妹)を伴って出兵したが、いずれも寒さと兵の疲弊で失敗に終わった。
  • 慕容宝の遺児らを謀反の疑いで処刑し、苻皇后のための豪奢な宮殿を築くなど暴政が続いた。諫言した宿衛の杜静は処刑された。
  • 苻皇后も病没すると、慕容熙は激しく悲嘆し、埋葬を遅らせて棺を開けさせるなど尋常でない振る舞いに及び、家臣にも涙を流して弔うことを強要するなど常軌を逸した。前高陽王妃の張氏も無実の罪で殉死を強いられ、公卿・兵民が総出で巨大な陵墓の造成にあたらされた。葬送の際には北門まで壊すという有様であった。

馮跋の政変と慕容熙の最期

  • 馮跋・張興らは慕容雲(高雲)を主に推して挙兵、龍城を制圧した。慕容熙は逃げ帰る途中で発見され、慕容雲によって処刑された(在位七年、二十三歳)。かつての童謡が的中したと語られる。
  • 慕容雲は本姓高氏に復し天王を称して国号は燕のまま存続、馮跋を筆頭に論功行賞を行った。慕容垂以来の後燕は四代二十四年で事実上終わった。

南燕・慕容超の即位

  • 南燕主慕容備德は跡継ぎがなく、長安に潜んでいた甥の慕容超(母段氏とともに苦難を経てきた)を捜し出して迎え、太子に立てた。慕容備德は病没直前に超を後継に定め、超が皇帝位を継いだ。追葬に際しては複数の棺を分散して埋葬し、正式な陵は空棺だったとも伝えられる。

評語

前秦は慕容氏によって滅ぼされ、後燕・南燕もまた婦人がらみの出来事で衰退するという因果が指摘される。慕容熙が国庫を傾け婦人の言うがままに動いたことが亡国の因であり、馮跋・高雲個人の野心のみに帰すべきではないと論じる。一方、慕容備德が甥の超を立てたのは道理にかなうが、南燕もまた後に滅びる運命にあり、それは慕容備德が兄の慕容宝への義理を欠いたことに由来する、と結んでいる。