兩晉演義第八十八回 呂隆は度々敗れ秦室に降り、劉裕は屡々勝ち孫恩を走らせる (呂隆累敗降秦室 劉裕屢勝走孫恩)
丁太后の死と苻氏姉妹の専寵
大小の苻氏姉妹は慕容熙の寵愛を分け合い、姉娀娥は貴人、妹訓英は貴嬪となるが、幼く艶やかな妹の方がいっそう寵を集めた。両姉妹の入宮後、熙は丁太后との関係を断ち、太后が使いを送っても応じず、逆に侍女を罵るほどだった。太后の甥で七兵尚書の丁信は、太后に頼まれ熙廃立を密議するが計画は露見し、丁信は投獄される。太后自身も謀反の首謀者とされ自尽を強いられた。熙は皇后の礼で丁氏を葬り献幽皇后と諡したが、丁信は処刑された。翌年、熙は姉の娀娥を昭儀に進め、妹の訓英を皇后に立てる。姉娀娥は微行や遊宴を好んで池を造らせ、多くの人夫が酷暑の中で命を落とした。妹訓英は騎馬と狩猟を好み、熙と共に遠出しては供給に多大な負担を強い、寒さで凍死する兵も相次いだが、熙はまったく意に介さなかった。
後涼・呂隆の孤立と秦への服属
後涼主呂隆は威を張って内外の反対派を粛清し続け、人心は離れていった。楊軌・王乞基らは南涼へ、郭黁は西秦へと逃げていたが、南涼では楊軌が異謀を疑われて誅殺される。魏安の人焦朗は後秦の隴西公姚碩德に「呂氏の暴虐で民は困窮している、討伐して救うべき」と説き、姚興の命で碩德が六万の兵を率い西秦の乞伏乾歸も従軍して後涼へ進撃した。呂超らの迎撃は破れ、龍驤将軍品邈は捕らえられ、巴西公呂他は秦軍に降る。西涼・北涼・南涼の各国主も秦の勝利を祝う使者を送った。
南涼へ逃れていた姜紀は秦軍に寝返り、碩德に「呂隆は孤城籠城中で必ず降るが、退けば再び背く、我が兵を貸せば箝制できる」と献策し、武威太守に任じられる。城内では内応を図った将が誅殺され、群臣は降和を勧め、呂超も「強敵に対し降を乞い、機を見て再興を図るのが得策」と説得、呂隆はついに降伏し子弟を人質に差し出す。碩德は略奪もせず引き上げ、秦の威名は西土に轟いた。秦主姚興は呂隆を鎮西大将軍・涼州刺史・建康公に冊封した。
南涼・北涼の後涼侵攻と呂隆の東遷
呂超はなお姜紀・焦朗を攻めるが失敗、南涼の傉檀と焦朗の間で小競り合いが続く。傉檀は姑臧近郊で夜襲を受けるが撃退し、呂隆の詐りの和睦の誘いも見抜いて危機を脱する。顕美城の攻防では、昌松太守孟禕が奮戦の末捕らえられるが、忠義を貫いた態度に傉檀は感銘を受け厚遇した。姑臧では大飢饉が起こり、米価が高騰して人が人を食うほどの惨状となり、呂隆は城外に逃れようとする民を虐殺するという暴挙に出た。北涼の沮渠蒙遜も乗じて姑臧を攻めるが呂隆に撃退され、いったん和睦する。傉檀と蒙遜双方から挟撃される形となった呂隆は疲弊し、ついに後秦へ帰順を申し入れ、姚興は左僕射齊難に四万の兵を授けて呂隆を長安へ迎えさせる。呂隆は素車白馬で出迎え、涼州は秦の直轄に移され、呂隆一族は長安へ移された。後涼は呂光の建国から呂隆の亡国まで四代十九年で滅んだ。
かつて郭黁は「涼に代わる者は王氏」と予言し、王詳・王乞基を推していたが実際に涼州刺史となったのは王尚であり、半分だけ当たっていた。郭黁自身はその後西秦から後秦へ逃げる途上で捕らえられ、首を刎ねられて果てた。
劉裕の孫恩討伐
孫恩は海に逃れた後も勾章・海鹽へ侵攻を続けるが、勾章の守将劉裕はよく防ぎ、海鹽に城塁を築いて孫恩軍を撃退し、その一党姚盛を討ち取る。城内の兵力が乏しいことを見抜かれるのを恐れた劉裕は、夜のうちに旗を隠して伏兵を配し、翌朝城門を開け放って老兵だけを見せる計を用いる。孫恩軍は空城と侮って進入したところを伏兵に急襲され大敗、多くが将棋倒しになって死んだ。
その後、海鹽令鮑陋の子鮑嗣之が功を焦って先鋒を願い出て劉裕の制止も聞かず突出、戦死してしまう。劉裕は疑兵の計で敵を欺きつつ苦戦しながらも巧みに軍を退き、孫恩は劉裕の手強さを避けて滬瀆を攻め、守将袁山松を討ち取り、三呉の壮丁を脅して従わせ、大船団で建康に迫った。都は大いに動揺し、劉牢之が孫恩を迎撃、劉裕も海鹽から急行して丹徒で孫恩軍を撃破し、一万近くを討ち取る大勝を収める。孫恩は建康を目指すもうまくいかず、譙王尚之の防備や劉牢之の追撃を恐れて北の鬱洲へ退き、別働隊で広陵を陥落させる。劉裕は下邳太守として孫恩軍を各地で撃破し続け、ついに元興元年、臨海太守辛景の反撃で孫恩は追い詰められ入水自殺した。従死した親族・妻妾は百人に及び、残党は彼を「水仙」と称えたという。
(詩:黄巾以来の邪教が虚偽で人を惑わすこと、真に神通力があるのなら海辺で討たれるはずがないと詠う)
孫恩の死後もなお数千の残党が解散せず、新たな頭目が推されることとなる。
評語
呂隆・呂超は簒奪によって国を得て、兄が君主、弟が宰相として安泰を期したが、焦朗・姜紀が秦の手先となって姚碩德の進攻を招いた。超は敗れて降伏を請い秦軍は引き上げたものの、北の沮渠、南の禿髮に挟撃されて国を保てず、ついに秦へ降った。これは近隣国が呂隆を容れなかったというより、天意が呂隆を許さなかったということであろう。孫恩は海賊の残党を集めて東南を騒がせたに過ぎず、良将を得れば容易に鎮圧できたはずだが、王凝之・謝琰と度重なる失策で勢いを増した。当時は妖術で人に勝ると疑われたが、劉裕が連戦連勝したことを見れば孫恩に術などなく、ただ脅迫で人を従えていたに過ぎないとわかる。劉裕が邪法を破ったわけでもないのに、なぜ水仙は劫を逃れられなかったのか。