兩晉演義第四十五回 妻子を殺し趙主は恩に薄く、君臣が協力し燕都で敵を退ける (殺妻孥趙主寡恩 協君臣燕都卻敵)

慕容皝の燕建国

  • 燕王慕容皝は慕容廆の三子。廆の没後、皝は跡を継ぎ、兄弟の翰・仁と争って仁を討ち、段氏・宇文氏を破って自ら燕王を称した。段氏の妻を王后、子の俊を王太子とし、封奕を国相、韓壽を司馬に任じ、前燕の基礎を固めた。
  • 皝は代王什翼犍と縁組みを結び、妹の興平公主を嫁がせた。当時、中原以北は趙・成(漢)・燕・代・涼の五国が並び立つ情勢であった。

張駿の北伐上表

  • 涼州牧張駿は晋に臣従を続け、参軍麴護を遣わして北伐を促す上表を奉った。石虎・李期らの簒奪を非難し、荊揚の兵力で北伐すれば成功すると説くが、時あたかも成帝の大婚準備と重なり、朝廷は儀礼的にこれを労うのみで実行に移さなかった。

杜皇后の冊立

  • 成帝は杜預の曾孫女・杜氏を皇后に立てた。杜氏は器量に優れ美貌で知られたが、久しく生歯せず縁談が進まなかったところ、納采の夜に急に歯が生え揃うという奇聞があった。婚儀は盛大に行われた。

石虎の驕奢と趙天王即位

  • 趙主石虎は鄴に太武殿・東西宮を造営し、莫大な費用と労役をかけて美女数万を集め、女騎の儀仗まで組織する奢侈を極めた。一方で国内は大旱で民は困窮した。洛陽から鐘や像を鄴に移す難工事も強行した。
  • 群臣に推されて石虎は「趙天王」を自称し即位した(皇帝を称するのは憚った)。皇后には寵妃の鄭氏(櫻桃)を立て、太子には櫻桃の子・邃を立てた。

鄭櫻桃と石虎の妻妾殺害

  • 鄭櫻桃は元は歌妓で、石虎の寵愛を得て正室郭氏を讒言により毆殺させ、続く継室崔氏も讒言によって石虎自ら弓で射殺させた。石虎の残忍な性格が強調される。

太子邃の暴虐と廃殺

  • 邃は膂力に優れるが陰険で、酒色に溺れ、婦女を惨殺したり尼僧を凌辱後に殺害して食するなど凶行を重ねた。異母弟の石宣・石韜を憎み、側近の李顔らに謀反(冒頓の故事)を持ちかけるが実行に至らず。
  • 大和尚仏図澄の諫めにもかかわらず石虎が真相を探らせると邃の非行が露見し、李顔らは誅殺、邃は庶人に落とされたのち妻子・東宮僚属ともども誅殺された。母の鄭櫻桃も東海太妃に落とされ、代わって石宣が太子、杜昭儀が后となった。

段遼をめぐる趙燕の戦いと石虎の敗走

  • 燕王慕容廆(皝)は趙に段氏討伐を求め、石虎は大軍を発して段遼を攻めさせた。段遼は敗走して密雲山に逃れ、趙軍に投降・虜掠された。
  • 石虎は勢いに乗じて燕へ侵攻し一時燕の諸城を降したが、仏図澄や太史令趙攬の諫めを聞かず棘城を包囲。燕は守将慕輿根・玄菟太守劉佩らの奮戦で持ちこたえ、封奕の献策で持久戦に持ち込んだ結果、趙軍は疲弊し攻めきれず撤退。撤退中、燕の若将(慕容恪)に追撃されて大敗した。

(詩:長年の暴虐な兵は久しく戦えば必ず乱れ、軍規が崩れれば禍を招くと歎ずる内容)

評語

東晋が江南に渡った後、中原は胡族が割拠し典午(晋室)を顧みなくなって久しい中、涼州の張駿だけは漢族として晋に忠誠を尽くし北伐を上表した点を評価する。江南の君臣が偏安に安んじて北伐を怠る間に、残虐な石虎が河洛に横行したのは大きな厄運であるとする。石虎が妻を殺し、太子邃の謀反に連座して東宮の無辜の者まで皆殺しにしたことを甚だしい暴虐と非難し、燕への攻撃が久しく功を奏さなかったのは燕の善謀に加え石虎の勢いが既に衰えていたためだと結ぶ。