兩晉演義第二十回 陽平に戦い苟晞が賊塁を破り、瑯琊王を佐け王導が名士を集める (戰陽平茍晞破賊壘 佐瑯琊王導集名流)

河間王顒暗殺の顛末と懷帝の即位

  • 新安で河間王司馬顒を殺した「盗賊」は、実は許昌の将軍梁臣が太傅司馬越の弟・南陽王模の命で仕組んだ暗殺だった。
  • 冀州刺史温羨は中書監から司徒に、王衍は司空に昇進。惠帝が太陽陵に葬られたのち、懷帝が即位し永嘉と改元、大赦を布いて族誅の刑を廃止した。
  • 廃太子候補だった清河王覃の外戚(周穆・諸葛玫)が越に対し覃の擁立を進言したが、越は激怒して二人を即座に処刑。世論を気にした越が、族誅を避ける形で事後処理し、これが三族刑廃止の裏事情だった。

儲君問題と太傅越の外任

  • 懷帝には子がなく、越は清河王の弟・詮(豫章王)を太子に立てるよう主導。懷帝は不本意ながら従った。
  • 懷帝は武帝の故事に倣い親政に意欲を見せたが、越はこれを察して自ら藩へ出ることを願い、許昌に鎮すこととなった。
  • 南陽王模は征西大将軍として長安へ、東燕王騰は新蔡王に改封され鄴を鎮すこととなった。

汲桑・石勒による鄴の攻略と騰の死

  • 汲桑・石勒は公師藩敗死後も逃亡していたが再び兵を集め、成都王のための復讐を掲げて鄴に迫った。
  • 騰は吝嗇で軍への恩賞を惜しみ、兵士の離反を招いた末に敗走し、汲桑配下の李豊に討ち取られた。
  • 汲桑・石勒は鄴を焼き払い、成都王穎の棺まで掠奪して南下。太傅越は兗州刺史茍晞らを派遣して迎撃させた。
  • 茍晞は籠城策で敵を消耗させたのち一気に反撃し、汲桑・石勒を大破。石勒は北へ逃れ、汲桑は乞活(田甄・田蘭ら)に追われて樂陵で殺された。成都王穎の棺も井戸に投げ込まれたのち収拾され洛陽へ改葬された。

石勒、劉淵に帰順

  • 石勒は樂平に逃れたのち、上党を占拠していた胡の部長・張㔨督を巧みな弁舌で説き伏せ、共に劉淵の下へ帰順させた。
  • 劉淵は石勒を輔漢将軍・平晋王に、㔨督を親漢王に任じ、㔨督の部衆を石勒に付けた。
  • 石勒はさらに烏桓の伏利度をも策略で従わせ、劉淵からは山東征討諸軍事の都督を加えられ、勢力を大きく伸ばした。

陳敏政権の崩壊

  • 江東を占拠していた偽楚公・陳敏は、悪政と子弟の横暴で民心を失っていた。顧栄らは廬江内史・華譚の書に励まされ、征東大将軍劉準と内応を約して陳敏打倒を図る。
  • 陳敏の弟・昶の部下(銭広)が周圯の勧めで昶を殺害。顧栄は甘卓を説得し(甘卓の娘は陳敏の子の妻だったが)、離反させることに成功。
  • 顧栄・甘卓・周圯・紀瞻らが連合して陳敏を攻め、陳敏軍は白羽扇一振りで瓦解。陳敏兄弟は捕らえられ処刑された。

瑯琊王睿、江東に鎮し王導が名士を招く

  • 陳敏討伐の功で顧栄は侍中、紀瞻は尚書郎に任じられた。朝廷は瑯琊王睿を安東将軍・都督揚州諸軍事として建業に鎮させた。
  • 睿は王導を司馬として重用し、王導の策で禊の場に威儀を示して顧栄・賀循ら江南の名士の信頼を得た。
  • 王導の推薦で顧栄・賀循・紀瞻・周圯らが次々と登用され、卞壺・劉超・張闓・孔衍らも参軍などに加わり、江東幕府は人材が揃った。
  • 王導は睿に節制・清静の政を説き、睿はこれに従って江東の人心を得た。睿の出自には、実は瑯琊王覲の妃・夏侯氏が小吏牛金と密通して生まれた子であるという異聞が伝わる(司馬懿が「牛が司馬に代わる」との讖を恐れて牛金を殺した故事との因縁が語られる)。

評語

東嬴公騰は兄の威を借りて鄴に鎮したが、かえって汲桑・石勒に討たれた。禍福は測り難い。茍晞は堅守策で桑・勒を破ったが、石勒は北へ逃れて劉淵に降り、後に晋の大患となった。陳敏は名士を集めようとしてかえって名士に見限られた――これは名士に見識があったからである。瑯琊王睿は王導の忠言を得て名士を礼遇し、のちの中興の基を築いた。賢を用いねば国は亡ぶという教訓が、この回には特に色濃く示されている。