兩晉演義第十三回 恵帝を迎え反正し奸臣を除き、王豹を殺し権を専らにし諫言を拒む (迎惠帝反正除奸 殺王豹擅權拒諫)

三王討伐軍と趙王倫方の攻防

  • 齊王冏の軍は潁陰で張泓軍に敗れ数千の死者を出すが、態勢を立て直して潁水を挟んで対峙する。孫輔は敗走して洛陽に「冏の軍勢は防ぎがたく張泓は戦没した」と虚偽の報告をし、趙王倫は動揺して兵の召還・再派遣を繰り返し混乱を招く。
  • 一方、成都王穎軍は当初孫会・士猗・許超の軍に苦戦し黄橋まで押し込まれるが、参軍盧志の進言で兵を精選して再攻し、大勝して孫会らを敗走させた。孫秀は敗報が続く中、対応策を協議するも決断できず、孟観・孫旗ら地方の実力者も日和見して倫方に留まった。

反正(惠帝復位)

  • 洛陽内で左衛将軍王輿らが趙王倫政権への反旗を翻し、宮中を制圧して孫秀・孫会・士猗・許超ら側近を殺害した。
  • 倫はやむなく降伏を宣言し、惠帝と羊后を金墉城から迎え戻す。惠帝は復位して大赦・改元(永寧)を行い、梁王肜の上表を受けて百官の総意として趙王倫の誅殺を決定、倫は金屑酒を賜って自害、子の荂・馥・虔・詡も誅殺された。
  • 成都王穎の援軍が齊王冏を助けて張泓らを降し、内乱は六十余日、両軍合わせて約十万の死者を出して終結した。宮中で璽綬を奪った義陽王威も惠帝の恨みを買い誅殺され、地方でも孫旗・孟観ら倫に与した者が討たれた。

論功行賞と齊王冏の専権

  • 惠帝は齊王冏を大司馬・九錫、成都王穎を大将軍・都督中外諸軍事・九錫、河間王顒を太尉とするなど功臣を厚遇し、張華・裴頠・解結兄弟の名誉も回復された。
  • しかし齊王冏の庶兄東萊王蕤や左衛将軍王輿が冏への不満から謀反を企てて発覚し誅殺されるなど、内紛の芽が早くも生じた。
  • 新野王歆や常山王乂はそれぞれ齊王冏・成都王穎に互いを牽制するよう働きかけるが、盧志の進言を受けた成都王穎は功を冏に譲って自ら鄴へ帰り、民心を集める善政(戦没者の厚葬、飢民救済の上表など)を行い、内外から賢王と称された。中書郎陸機兄弟も穎に重用された。
  • 対照的に齊王冏は私邸を大増築し酒色に溺れ、腹心の五公(葛旟・路秀・衛毅・劉真・韓泰)に権を委ね朝政を顧みなかった。皇太孫の死後、幼い清河王覃を太子に立てて自ら太子太師となり、権勢を独占しようとした。東海王越もこの頃侍中・司空として台頭し始めた。

王豹の諫言と粛清

  • 侍中嵇紹は齊王冏・成都王穎の対立の兆しを憂えて上疏したが省みられなかった。
  • 主簿王豹は齊王冏に二度にわたり長い箋を上げ、「元康以来、宰相の地位にあった者はみな善終を得ていない」と歴史を引いて戒め、成都王・河間王・新野王ら地方の実力者が各方面に割拠する中、冏だけが京都で大権を独占するのは危ういとして、周公・召公の故事に倣い成都王と南北に分治するよう勧めた。掾属孫惠も功成り身退くべきと諫めたが、冏は決断できなかった。
  • 長沙王乂が王豹の箋を見て「骨肉を離間する不敬」と激怒し、冏を煽って王豹誅殺の上奏をさせた。王豹は東市で鞭打たれて殺され、死に臨み「我が首を大司馬の門に懸け、外兵が齊を攻めるのを見せよ」と言い残したと伝える。末尾に王豹の忠言が容れられず誅されたことを悼む詩が添えられる。

評語

  • 齊王冏は名門の子として義兵を挙げた功では諸王随一だが、周公や諸葛亮のように諸王と協力して惠帝を輔弼するか、あるいは潔く身を引くべきであったのに、逆に驕り高ぶり良言を容れず、ついに忠臣王豹を冤罪で殺して言路を塞いだことを厳しく批判する。
  • 孔子の「君主に逆らう者がいないことは国を滅ぼす」との言葉を引き、臣下の身でありながらこの驕りを示した冏の末路を暗示し、鄭方・孫惠らの諫言は省略しつつ王豹の二箋と冏の奏上を詳しく記したのは、王豹の忠義を称え冏の横暴を糾弾するためだと結んでいる。