兩晉演義第十一回 逆書を起草し酔わせて儲君に迫り、偽勅を伝え兵を挙げ悍后を廃す (草逆書醉酒逼儲君 傳偽敕稱兵廢悍後)

廃后を巡る密議とその挫折

  • 賈后の淫虐が甚だしく醜聞が内外に知れ渡る中、侍中裴頠や賈后の一族である賈模も不安を募らせた。裴頠は賈模・張華と密議し、賈后を廃して太子遹の生母謝淑媛(謝玖)を立てようと提案するが、賈模・張華は「主上に廃后の意向はなく、諸王が力を持つ中で軽々しく事を起こせば身も国も危うい」と反対する。
  • 結局、賈模・裴頠が伯母郭槐(賈后の母)を通じて賈后を諫めさせる穏当な策に落ち着くが、賈后は聞き入れず、むしろ賈模を疎んじて拒絶したため、賈模は憂憤のうちに病死した。裴頠は尚書僕射への昇進を辞退しようとするが許されず、進言しても及び腰のまま在職を続けた。
  • 世相として、賈・郭一門の子弟が権勢をかさに売官・賄賂を公然と行い、魯褒が『銭神論』でこれを風刺したこと、名士韋忠が張華・裴頠の招聘を「実の伴わぬ華やかさ」「際限ない欲」と評して拒んだこと、索靖が洛陽宮門の銅駝を見て天下の乱を予感し嘆息したことが記される。

太子遹の乱行と賈后の企み

  • 太子遹は幼少期は聡明だったが成長するにつれ遊興にふけり、師傅を敬わず宦官・宮妾と戯れる日々を送った。賈后は密かに宦官を使って太子を堕落させ、廃立の口実を作ろうとした。
  • 太子は生母謝淑媛譲りの商才で宮中に市場を開き屠殺・酒売りなどで利を得る一方、浪費も甚だしく、洗馬江統の五箇条の諫言(朝見の励行、師保の尊重、雑役の削減、市場商売の廃止、迷信の排除)も舎人杜錫の忠告も聞き入れなかった。杜錫が座布団に針を仕込まれて刺される嫌がらせを受けた逸話も記される。
  • 賈謐との確執も深まる。太子は当初韓寿の娘、続いて王衍の美しい長女を妃に望んだが、賈后が賈謐に長女を娶らせ太子には容色に劣る次女をあてがったため、太子は賈后・賈謐への恨みを募らせた。詹事裴権の諫言にも激昂した。郭槐がなお太子を庇ったため、この時点ではまだ無事だった。

郭槐の遺言と賈后の廃太子計画

  • 郭槐は死に際し賈后に「太子を守ること、趙粲・賈午が必ずお前の家を害するであろうこと」を遺言したが、賈后は聞き流した。
  • 賈謐は郭槐の死後も賈后に太子への警戒を吹き込み、賈后は趙粲・賈午と謀って太子廃立を画策する。賈午は自分の子を身ごもったと偽装して宮中に送り込み、太子にすり替えて後継とする計略を進めた。
  • 中護軍趙俊が太子に挙兵して廃后を図るよう勧めるが太子は動かず、左衛軍劉卞は張華に東宮の兵で賈后を廃するよう進言するが、張華は大義名分を理由に躊躇し拒む。劉卞はその後雍州刺史に転任させられ、計画露見を疑って服毒自殺した。

酔中の逆書事件と太子廃位

  • 元康九年十二月、太子の長男虨(道文)の病気にかこつけて太子は入内させられ、宮婢陳舞に強いられて泥酔するまで酒を飲まされた後、宮婢承福の持参した草稿を、意味も分からぬまま酔眼のまま書き写させられた。
  • 翌朝、惠帝は群臣を集め、この二紙(「陛下は自ら身を処すべきだ、さもなくば私が手を下す」「中宮も速やかに身を処すべきだ」といった過激な文言と、母の蔣氏や道文の擁立を謀るとする文言)を示し、太子の筆跡だとして死罪を求めた。
  • 実際には潘岳が原稿を書き、太子が書き損じた箇所も潘岳が模写で補ったため筆跡の真偽が判別できなくなっていた。張華・裴頠は真偽の確認と太子との対質を求めて議論が紛糾するが、業を煮やした賈后は黄門董猛を通じて即決を迫り、張華・裴頠に一喝されると、賈后は自ら上表させて太子を庶人に廃した。
  • 太子は金墉城に幽閉され、妃王氏と三子(虨・臧・尚)も同行、道文の母蔣氏は太子を惑わした罪で杖殺され、謝淑媛も連座して賜死された。王衍は連座を恐れて娘(賈謐の妻ではなく太子妃となった次女)の離婚を願い出て許され、王妃は太子と涙の別れをして実家に戻った。

太子毒殺と賈后廃立の兵変

  • 翌年、永康と改元。西戎校尉司馬閻纘が棺を担いで上書し、前漢の戻太子の故事を引いて太子への処分軽減を訴えるが取り上げられなかった。
  • 賈后はなお不安から太子を許昌宮に幽閉し、さらに黄門に太子謀反を自首させる偽装で外部との接触を断たせた。江統・潘滔・王敦・杜蕤・魯瑤らが禁を犯して見送ったため司隷校尉満奮に捕らえられるが、後に釈放された。
  • 右衛督司馬雅らは太子復位を目論み、実力を持つ趙王倫を担ぐことにし、孫秀を通じて倫を口説く。孫秀は当初賛同するが、後に「太子が復位すれば恨みを持つ倫にも累が及ぶ」として、むしろ賈后に太子を殺させた上で太子の仇として賈后を廃す方が得策だと入れ替える策を倫に授け、倫はこれに従った。
  • 孫秀はさらに賈謐に太子殺害を勧めさせ、賈后は太医令程據に毒薬を調合させ、黄門孫慮を許昌に送って太子を毒殺させようとする。太子は食事に細心の注意を払っていたが、孫慮は食を絶たせた末に薬杵で撲殺し、太子は二十三歳で落命した。
  • 賈后は表向き哀惜を装い、庶人ではなく王の礼をもって太子を葬るよう惠帝に上表し許された。

趙王倫の挙兵と賈后・張華・裴頠の末路

  • 天象の異変(尉氏の血の雨、彗星、太白昼現など)が相次ぐ中、張華の子韙が辞職を勧めるが張華は動かず、司馬雅・孫秀の使者としての説得にも応じなかった。
  • 趙王倫は偽の詔勅で三部司馬らを動かし、齊王冏らとともに宮中に突入、賈謐を斬殺し、賈后を「詔により廃す」として拘束、趙粲・賈午らを杖殺し、韓寿一族も連座で処罰した。
  • 倫はさらに張華・裴頠を捕らえ、通事張林に「太子を守れず、廃死しても殉じなかった不忠」を咎めさせて処刑し、両者とも夷族の刑に処された。張華は六十九歳、著書に『博物志』などがある。裴頠は三十四歳で、子は梁王肜の計らいで死罪を免れ帯方へ流された。閻纘は張華の遺骸を撫でて悔恨の言葉を漏らした。
  • 末尾に張華の晩節を惜しむ詩が添えられる(趣旨:古稀に近い歳まで栄達に恋々とし、老いて子ともども誅殺された結末を憐れむ内容)。
  • 趙王倫の粛清はなお続く様子が示され、次回に持ち越される。

評語

  • 晉の建国が賈充による曹髦弑逆に始まり、賈氏の女の宮中入りとその淫恣が八王の乱を醸し西晋滅亡の因となったのは、天道の応報であろうと論じる。
  • 張華・裴頠が宰輔の位にありながら乱を正せなかったのは才識の不足のみならず天意が功を許さなかったためとし、聡明だった太子遹が酒に乗じて逆書を書かされ廃されたのも、悍后の手を借りた大きな力の働きと見る。
  • 賈后の悪が満ちた末に、公正な張華・裴頠にではなく貪鄙で陰険な趙王倫・孫秀の手による廃立を招いたことに、天が晋の安定を望んでいない兆しを見出し、禍が一つ収まればまた一つ起こる展開を示唆して結んでいる。