華夷の乱と内訌外患論
- 語り手(作者)が、中国の歴史で異民族との混乱がなぜ繰り返されるかを論じる。華人が特別優れ夷人が劣るわけではなく、内政が乱れることで外患を招くという持論を述べる。
- 『晉書』を繙いたことをきっかけに、両晋の歴史を語り起こす経緯を説明する。
司馬氏の台頭と魏の簒奪
- 司馬懿は魏に仕えて実権を握り、子の司馬師・司馬昭が相次いで権力を継承。
- 魏帝曹髦は司馬昭の専横に耐えかね自ら兵を率いて討とうとするが、賈充の指図で成済に弑逆される。司馬昭は罪を成済一人に着せて三族を誅し、自らは咎めを免れる。
- 司馬昭は曹奐(常道郷公)を擁立し、蜀漢を鄧艾・鍾会に攻略させて劉禅を降す。功により晋公・晋王に進み、子の司馬炎を世子とする。
- 司馬昭の死後、司馬炎は禅譲を受けて即位(泰始元年、国号を晋とする)。曹奐は陳留王に封じられ鄴へ移る。旧臣司馬孚のみ魏への忠義を最後まで守った。
武帝の即位と宗室分封
- 司馬炎(武帝)は祖父懿・伯父師・父昭をそれぞれ皇帝に追尊し、母王氏を皇太后とする。
- 王太后の子のうち成人したのは炎と攸のみ。攸は伯父師の養子となっていたが、山濤・賈充・何曾・裴秀らの支持で結局炎が世子となった経緯を振り返る。
- 即位後の武帝は倹約を奨励するなど善政を敷いたが長続きしなかったと予告される。
- 宗室を諸王に封じて藩屏とし(司馬孚・司馬乾・司馬亮・司馬伷・司馬駿・司馬肜・司馬倫・司馬攸ら)、功臣にも官爵を加える。
楊皇后冊立と太子選定の誤り
- 楊艶(弘農の楊文宗の娘)が皇后に立てられる。楊后は従妹の趙粲を武帝の側に近づけ、二人で結託する。
- 武帝の子・司馬衷(後の恵帝)は幼くして愚鈍であったが、楊后と趙夫人の説得により泰始三年に皇太子に立てられてしまう。これが後の禍の種となる。
李密の孝行と王祥の死
- 蜀漢の遺臣李密が祖母への孝養を理由に出仕を辞退する上表(陳情表)を武帝に認められる逸話を挿む。
- 泰始四年、皇太后王氏が崩御し、武帝は喪に服す。同じ頃、孝行で名高い王祥も没する。
樹機能の反乱
- 武帝は羊祜を荊州に配して呉への備えを進める一方、雍涼の境では鮮卑の禿髮樹機能が勢力を伸ばす。
- 泰始六年、樹機能がついに反乱を起こし、以後の胡族の禍乱の端緒となる。
評語
- 本回は西晋の外患が内乱に起因することを説く導入であり、賈充の魏弑逆への関与を伏線として強調する。
- 武帝が宗室を封じ楊后を立てたことは筋を通す記述だが、司馬衷を太子に立てたのは婦人の言に惑わされた失策であり、後の禍の淵源として厳しく批判される。
- 李密・王祥の孝行譚は勧善の実例として添えられている。