遼史卷一百十四 列傳第四十四 蕭塔喇台
功績から誅殺へ
蕭塔喇台、字は和爾沁。国舅少父房の後裔。父の雙寛は塔納公主を娶り国舅詳衮に至った。塔喇台は幼くして機敏で不羈、狩猟を好んだ。太平中、外戚として祗候郎君に補され、延昌宮使・殿前副点検を歴任した。重熙十三年、西夏討伐で先鋒として敵地に深く入り多くを捕獲した。都点検に遷り、烏爾古徳哷勒部都詳衮に改められた。十八年、再度の西征に際し、塔喇台は「軍馬器械のことは将の選び方にある、夏人など恐れるに足りない、ただ厳重な物見を置き奇襲を仕掛けさえすればよい、どうして勝てないことがあろうか」と奏したが、帝は「そなたは速やかに行け、師期に遅れるな」と命じ、結局塔喇台は敗れて帰り、再び都点検となった。十九年、西夏軍が金粛軍を侵した際、帝は塔喇台に軽兵を率いて督戦させ、河南の三角川で斥候八人を斬り観察使を捕らえる功を立て、漢人行宮都部署事を知るに任じられ、さらに西南面招討使に出された。一族の弟の黄巴家奴が主が宮中の事を私議したと告発し、塔喇台はこれを揉み消したが事が発覚し、大杖の刑を受けて爵を削られ庶民に落とされた。清寧中、その罪が塔喇台自身の犯したことではないとして南京統軍使に起用されたが、重元の子尼嚕古らの乱に加わり、敗走の末に捕らえられ誅された。