遼史卷一百十二 列傳第四十二 隆科

関与と最期

隆科、字は密遜。文献皇帝の子。天禄五年、遥授で武定軍節度使とされた。察克の乱の際、穆宗は烏哲とともに林牙廸里の計で察克を誘い出し、隆科がその手で察克を刺殺した。南京留守に改められたが、穆宗が酒色に耽り政務を怠るのに乗じ、隆科は覬覦の心を抱いて廸里や不満分子を誘い謀反を企てた。事が発覚し取り調べを受けたが認めなかった。帝は「朕が夀安王であった時、卿はしばしばこの謀を朕に説いたが、今日それが虚言であろうか」と問うたが、隆科は答えられなかった。他の党の者がすべて自白すると、隆科は汗州西谷で絞殺され、詔により後継の絶えた地を選んで葬られた。