遼史卷一百十二 列傳第四十二 察克

太后・帝の弑逆と自滅

察克、字は烏紳。明王安圖の子。騎射を善くし、容貌は恭しく見えたが内心は狡猾で、人は臆病者と見ていたが、太祖は「この者は凶頑であって臆病ではない」と言った。父の安圖が太祖に奏事した際、太祖は近侍に「この子の目は疾走する駱駝のようで顔には反相がある、朕が万一独り居るときはこの者を入れてはならぬ」と語った。世宗が鎮陽で即位した際、安圖はこれを聞いて去就に迷ったが、察克は「太弟(李胡)は忌み深く猜疑心が強い、もし本当に立てば我々を容れないだろう。永康王(世宗)は寛厚であり瑠格とも仲が良い、彼らのもとへ行くべきだ」と説き、安圖は瑠格とともに世宗のもとへ帰順を謀った。和議成立後の功により泰寧王に封じられた。安圖が西南面大詳衮であった時、察克は父の悪事を偽って密かに帝に知らせ、召されて涙ながらに悲哀を訴えたため帝は憐れみ、鈕祜禄軍を率いさせ禁中に出入りさせた。帝が狩猟に出るたびに察克は病を口実に弓矢を持たず、ただ錬鎚のみを持って走り回った。屡々家の些事を帝に告げ、帝はこれを誠実と見なした。察克は一族が雑居して自由に動けないため、次第に廬帳を行宮の近くに移した。右皮室詳衮耶律烏哲がその奸邪を察知して奏したが、帝は信じず表を察克に見せると、察克は烏哲の病を装い咽び泣いた。帝は「朕はもとよりこのようなことはないと知っている、なぜ泣くのか」と言った。察克が時々怨言を漏らすと、烏哲は「そなたにその心がなくても、朕がそなたを疑うのはそなたの過ちのせいだ、不義を働かなければよいだけだ」と述べた。烏哲がさらに帝に上言すると、帝は「察克は父を捨てて我に仕えている、他心はあるまい」と答え、烏哲は「察克は父に対してすでに不孝であるのに、どうして君に忠であろうか」と述べたが帝は聞き入れなかった。天禄五年七月、帝が太液谷に幸して三日間宴飲した際、察克は乱を謀ったが果たせなかった。帝が後周を伐ち和尚山に至った際、太后と帝が行宮で文献皇帝を祭った折、群臣がみな酔ったところ、察克は夀安王のもとへ行き語らいを持ちかけたが王は従わなかった。察克はこの謀を耶律璸都に告げると璸都はこれに従い、その夜、兵を率いて太后と帝を弑逆し、僭して帝位を号した。従わない百官は家族を捕らえられた。夜、内府の宝物を検分し瑪瑙椀を見て「これは希代の宝、今は私のものだ」とその妻に自慢すると、妻は「夀安王と烏哲が生きている限り一族に生きる者はない、この物が何になろうか」と答えた。察克は「夀安はまだ幼く、烏哲はせいぜい数人の奴僕を率いてくる程度、恐れるに足りない」と言ったが、その党の舒蘇が夀安に烏哲の兵が外を包囲していると告げ、察克は間もなく人を遣わし柩前で皇后を弑逆した。慌てふためいて陣を出ると夀安は「そなたたちはすでに弑逆を行った、これからどうするつもりか」と諭した。額爾奇木和卓が兵を捨てて夀安王に帰順すると、残る衆もゆっくりとそちらへ向かった。察克は事が成らないと悟り、拘束していた官員の家族を繋いだまま弓矢を手に「これ以上殺すな」と脅し急いで退出させた。林牙耶律廸里も捕らわれていたが「夀安王を廃立の名分にすればまだ免れられる」と進言し、察克は「その通りだ、誰を使者にすべきか」と問うと、廸里は「雅斯哈とともに参ります」と申し出て、察克はこれに従った。夀安王は改めて廸里に察克を誘い出させ、これを殺した。その子はみな誅された。