遼史卷一百十一 列傳第四十一 蕭額圖琿
誣告への加担と最期
蕭額圖琿、国舅少父房の後裔。咸雍中、牌印郎君に補された。太康三年、枢密使伊遜が密かに逆謀を懐き護衛太保耶律扎拉に耶律薩喇らの廃立の企てを誣告させたが、取り調べても証拠がなく関係者はみな地方官に出された。まもなく額圖琿は伊遜の意を察してその事を実証しようとし、耶律托卜嘉らとともに参内し、耶律薩喇らが伊遜殺害と皇太子擁立を謀ったと誣奏し、「自分もその謀に加わっていたが、黙っていれば発覚して連座するかもしれない」と述べた。帝は果たして怒り皇太子を上京に流した。額圖琿は皇女趙国公主を娶り駙馬都尉となったが、後に伊遜と意見が合わず恨みを抱き、さらに車馬や衣服が君主に僭するとして誅された。刑に臨んで額圖琿は「先に耶律薩喇の事を告発したのはすべて伊遜が教えたことだ、事が明らかになるのを恐れて私を殺し口を封じるのだろう」と語った。