遼史卷一百十 列傳第四十 蕭錫沙

伊遜への加担

蕭錫沙、摩和納部の人。父の都勒斡は節度使を歴任した。錫沙は弁が立ち人の意を巧みに察し、清寧年間、年功により護衛太保に累進した。太康初め、耶律伊遜が再び枢密府に入って権勢を振るうと、錫沙は伊遜の家に出入りし、朝臣で付き従わない者を追い出す役を担った。宿衛から殿前副点検に遷った。三年夏、護衛蕭和克らが伊遜殺害を謀った事件が発覚して下獄すると、錫沙は伊遜に「今なお太子が健在で、臣民の心は太子にある。大王には確固たる基盤の支えがなく、しかも皇后を陥れた怨みまである。もし太子が立てばどこに身を置くつもりか、よく考えるべきだ」と説いた。伊遜は「私も久しく憂慮していた」と応じ、その夜、蕭塔喇台を召して太子を陥れる計画を練った。錫沙の策謀はそのまま実行され、まもなく殿前都点検兼同知枢密院事に遷った。さらに蕭額圖琿らに耶律扎拉が以前告発した耶律薩喇らの事件は事実であると偽って自首させ、詔によりその事を調べさせた。太子は認めなかったため伊勒希巴耶律雅克を遣わして問わせたところ、太子は誣告された経緯を詳しく述べたが、錫沙はこれを聞いて雅克に「このまま奏上すれば大事が失われる、供述を偽の自白に変えよ」と言い、雅克はその通りに奏上した。帝は大いに怒り太子を廃し、太子が退去する際「私に何の罪があるのか」と言ったが、錫沙は叱りつけて車に乗せ、衛卒に車の扉を閉ざさせた。この年、北院枢密副使に遷り、さらに密かに太子を害する計を進言し、伊遜はこれに従った。伊遜が南院大王事に落とされると錫沙も保州統軍使に出され、そこで没した。乾統年間、棺を暴いて屍を戮され、二子の達勒達・年結もともに誅された。