遼史卷一百四 列傳第三十四 耶律昭

出自と経歴

  • 耶律昭は字を述寧といい、博学で文をよくした。統和中、兄の果囉の事に連坐して西北部に流された。折しも蕭達林が西北路招討使となり、昭を愛して奏してその役を免じ、礼を尽くして門下に招いたが、病を理由に辞退した。
  • 達林は「今軍旅がやっと止み三辺は平穏だが、準布のみが隙をうかがって動く。討伐すれば道が遠くて至りがたく、放置すれば辺民が掠奪される。戍兵を増やせば軍糧の輸送が追いつかない。一時の安を求めても終には変事を保証できない、どうすればよいか」と問うた。
  • 昭は書で「治にその要を得れば仇敵も一家となり、その術を失えば部曲も行路の人となると聞いております。西北諸部では農時ごとに一夫が偵候にあたり一夫が公田を治め二夫が糺官の役に給し、大概四丁のうち一室も無事な者はいません。芻牧の事は妻子に任せているため、一度寇掠に遭えば貧窮がたちまち生じます。春夏の賑恤も吏が糠粃を混ぜたり搾取を重ねたりするため、数月と経たぬうちにまた困窮を告げるのです。  また畜牧は富国の本であるのに、有司は隠没を防ぐため一所に集めてしまい、水草の便利な地に各々就くことができません。逃亡した戍卒を随時補充しますが、風土に慣れないため日に月に瘦せ損じ、次第に耗竭してしまいます。  今の計としては、窮民を振起し賦を薄くし牛と種子を給して耕穫させ、遊兵を置いて盗掠を防ぎ、俘獲を頒って伏臘の助けとし、畜牧を便利な地に分散させ、数年を期せば富強が望めます。その後精兵を訓練して整えれば、どのような守りも固くならないことがなく、どのような動きも克たないことがないでしょう。ただし必ず制しがたい者は除かなければ、残りの種族も自ずと畏れましょう。大を捨てて小を謀り強を避けて弱を攻めれば、財力を虚費するだけでなくその心を威服させることもできません。この二つは利害の要であり、察しないわけにはいきません。  昭が聞くところによれば、古の名将が辺を安んじ功を立てるのは、徳にあって衆にあるのではないといいます。謝玄は八千の兵で苻堅の百萬を破り、休格は五隊で曹彬の十萬を敗りました。これはみな恩をもって士心を結び、その死力を得たからです。閣下は非常の遇を受け一方面の寄を専らにされており、遠く古人に学んで功業を成すべきです。上は乾象を観、下は人謀を尽くし、地形の険易を察し敵勢の虚実を料れば、遺策なく後世に施される利益となりましょう」と答えた。
  • 達林はこれをよしとした。開泰中、巴爾圖山で狩猟中、羯羊に触れられて卒した。