遼史卷一百一 列傳第三十一 蕭呼都克

出自と経歴

  • 蕭呼都克は字を哈準隱といい、その先祖薩哈勒齊は太祖の時に宮分に隷することを願い、太和宮分の人となった。曽祖の達魯は医に明るく人の形色を見ただけでその病の在所を知った。
  • 統和中、宰相韓德讓が貴寵を得た際、達魯は旨を承けて德讓に國姓を賜り横帳に籍するべきと言った。これにより世々太醫の選に預かり、子孫にも官に入る者が多かった。
  • 呼都克は性が便侫で人と忤らわなかった。清寧初め近侍に補せられ、大安元年彰愍宮太師となり、壽隆二年永興宮太師に転じた。天慶初め殿前副㸃檢に累進。
  • 五年、天祚の東征に従い先鋒都統となったが事に臨んで猶予し、隊伍をすべて圍塲の名号でしか呼ばなかった。拉林水に進んで金兵と戦い敗れ、大軍も退いた。耶律章努を討伐する際は私奴を籍して軍とし、知北院樞密使事に遷って卒した。
  • 呼都克は騎射に長け、天祚が遊猟を好むのを見るとしばしば従禽の楽しみを語ってその意に迎合した。天祚はこれを悦んで従い、国政の荒廃はこれより始まったという。

史論

  • 論じて言う。太平が長く続くと上下が旧習に狎れることのなんと恐ろしいことか。天慶年間、女直がまさに盛んになったとき、ただ托斯和のみが敵情に明るく忠諌に長けていたが、惜しくも天祚が頑迷に蔽われ信用されなかった。阿息保が阿蘇の乱で死ななかったこと、伊實が盧彦倫の捕縛に堪え忍んだこと、大節を既に失えば他に長所があっても取るに足りない。呼都克は遊猟をもって天祚に迎合し国政を荒廃させたのは、罪を勝るまでに数え尽くせようか。