遼史卷九十七 列傳第二十七 哈里

出自と経歴

  • 哈里は字を呼紐といい、回鶻人。その先祖は太祖の代に貢を来たし、留まることを願ったため任用された。
  • 重熈年間、近侍長を歴任。清寧九年、重元の乱を討って功があり、金吾衞上將軍を加えられ、平亂功臣を賜った。
  • 累進して殿前都檢㸃となり、宿衛が厳粛であると称された。太康初め守太子太保を加えられ、二年に同中書門下平章事を加えられた。三年、同知南院宣徽使事に改まった。
  • 耶律伊遜が中京を出守した際、哈里は入賀してその復召に反対の意見を述べた。後に伊遜が再び樞府に入ると、哈里は廣利軍節度使に出された。皇太子が誣告された際、哈里も連坐にあたるとされたが、詔により問われなかった。
  • 大安初め丕勒達嚕噶部節度使を歴任。壽隆五年、病を得て「自分の寿命は尽きた」と言い医薬を断って卒した。享年七十七。
  • 哈里は日頃から仏教を信じ、清寧初め上に従って狩猟中に落馬し、気を失って蘇った際、二人に導かれてある城の宮殿へ至り、綘袍を着た者が殿上に座し左右が並び侍る様を見たと語った。牘を持つ者が「本来は大腹古雲を取るべきところ、誤ってお前の牘を執った。上書によれば官は使相に至り寿は七十七」と言い、たちまち大壑に突き落とされて目覚めたという。道宗はこれを聞いてその事を書き記させ、後に事実がすべて的中したという。