遼史卷九十六 列傳第二十六 姚景行

姚景行

  • 姚景行、初め名は景禧。祖漢英は本周の将で、応暦初め来聘した際敵国の礼を用いたことで帝は怒りこれを留め漢人宮分に隷させた。景行が貴となるに及び初めて籍を出し興中県貫とした。
  • 景行は博学、重熙5年(1036年)進士乙科に擢され将作監となり、燕趙国王教授に改まり数年ならずして翰林学士・樞密副使・参知政事に至った。性は敦厚廉直で人望はこれに帰した。道宗即位に及び多く顧問を被り北府宰相となった。
  • 清寧9年(1063年)秋、老を告げて帰る途上、重元の乱を聞き行旅を収集して三百余騎を得て勤王したが、至った時には賊は既に平らげられていた。帝はその忠を嘉し逆人の財産を賜った。
  • 咸雍元年(1065年)、武定軍節度使として出て、翌年駅召され南院樞密使を拝した。上は従容として治道を問い内殿に引き入れ御書及び太子の書を出してこれを示し什器車仗を賜った。帝は宋を伐つ意があり景行を召して「宋人は生を好むが辺事はどうか」と問うと、対えて「聖宗皇帝が威徳をもって遠を懐けて以来、宋は職貢を修め今に至るまでほぼ六十年です。もし細故をもって兵を用いれば先帝の成約に違う恐れがあります」と言い、上はその言を然りとして止めた。
  • 致仕したが月を踰えずして旧職に復し、家艱に丁って起復し中書令を兼ねた。上が古今の儒士の優劣を問うと占対は旨に称った。興中府を知り朔方軍節度使に改まり、太康初め遼興に徙鎮した。上京に滞獄が多いことをもって留守に命じられ数月ならずして獄が空であると聞こえさせた。たびたび致政を乞うも従われず、再び請うて許され守太師を加えられ卒した。使を遣って弔祭し栁城郡王を追封し諡は文憲。寿隆5年(1099年)、詔して祠を立てさせた。