耶律世良
- 耶律世良、小字は斡。六院部の人。才敏で国朝の典故及び世譜に練達し、上書して族弟迪里と嫡庶を争い、帝は初めてこれを知った。時に北院樞密使韓徳讓が病むと帝は「誰がそなたに代われるか」と問い、徳讓は「世良は北院大王になれます」と言った。耶律舒嚕を再び問うと、徳讓は「北院の選には世良に及ぶ者はいません」と言った。
- 統和末、北院大王となり、開泰初め大冊礼により検校太尉同政事門下平章事を加えられた。時に辺部が命に拒むと詔して北院樞密使耶律華格に兵を将いさせ世良を都監としてこれを禦かせに行かせた。翌年、華格は還って兵を罷めようとしたが、世良は上書して「華格は無事だとして還ろうとしていますが、師が老い粮が乏しく敵人が既に去ったのに、どうして久しく守れましょうか。もし兵を益せば克つことができます」と言った。
- 帝は即ち華格に命じて兵を益させ世良と共にこれを追わせ安真河に至って大破して還った。これより辺境は寧んじ、その功により岐王に封ぜられ北院樞密使を拝した。
- 開泰3年(1014年)、烏爾古で馬駞を選ぶことを命じられた際、折しも徳哷勒部人伊喇がその酋長を刷を殺して反乱を起こし隣部が皆呼応して巨穆古城を攻陥した。世良は兵を率いて境に圧し人を遣ってこれを招くと数部が各々故地に復した。
- 開泰4年(1015年)、高麗を伐つ際、副部署となったが都統劉慎行が逗遛して期を失い執えられ京師に還されると、世良は独り兵を進めた。翌年、北都護府に至り追兵を郭州で破ったが、暴病により卒した。
史論
- 論じて言う。大が小を懐かせるのは、徳をもってこれを制するからである。徳が足らず威も足らないのに人を服させようとするのは難しい。華格は俘獲を利として諸番が附かず、和囉木薩噶は誤って磨古斯を撃ち準布が命に叛いた。皆一旦の功に喜んで後日の患を図らなかった。何を議すべきだろうか。斡拉が深く入ることを戒め、蘇色が安集に務めたことのようなものは、また鉄の中の錚錚たる者ではないか。