耶律古雲
- 耶律古雲、字は穆喇齊。北院林牙圖魯卜の後で膂力があり馳射を工みとした。開泰間、烏爾古徳哷勒都監となった。折しも部人が反乱を起こすと樞密使耶律世良に従いこれを討って平らげ、その功により詔して西北部を鎮撫し種樹畜牧を教えると数年ならずして民の多くが富実となった。
- 中京で盗が起こると古雲を巡邏使とし悉くこれを擒えた。上が渤海を親征する際、黄皮室軍を将いて敵を破る功があり、たびたび昇進して御史中丞となり、間もなく開遠軍節度使を授けられ、帰徳鎮に徙った。
- 「二十一年」、天成軍節度使に改まり、官にて卒した(原文はどの元号の21年か明記せず、四庫館臣の考證も比定を保留している)。年70。同中書門下平章事を贈られた。二子は伊遜・鄂摩。伊遜は重熙間、蕭恵に従い西夏を討った際、恵が敗績する中で伊遜の一軍だけが全うされ北院大王を拝した。鄂摩は太康3年(1077年)漢人行宮副部署となった。伊遜が太子を誣害した際、その詞は鄂摩に連なったが帝はこれを釈した。この秋、伊遜は再び蕭楊と結んで宮壼の事を私議したと奏され害された。乾統間、同中書門下平章事を贈られた。