遼史卷九十一 列傳第二十一 耶律布勒圖

耶律布勒圖

  • 耶律布勒圖、字は燕隱。六院林牙図魯卜の四世孫。開泰間、本班郎君となり捕盗の功があり、樞密使蕭朴がこれを薦め率府率に遷った。太平中、同知南院宣徽事となり、たびたび昇進して彰聖軍節度使となった。
  • 重熙16年(1047年)、興中府を知り獄が空であることを聞こえさせた。重熙18年(1049年)、夏を伐つに際し西南面招討使を摂した。重熙19年(1050年)、夏人が金肅軍を侵すとこれを敗り一万余級を斬った。右武衛上将軍を加えられた。
  • 時に近辺の群牧がしばしば冦掠を被っていたため、到塌嶺都監に遷ってこれを治め、桴皷は鳴らなくなった。重熙20年(1051年)、金肅軍事を知った。宰相趙惟節が辺城橋道芻粟を総領し貳を請うと、帝は布勒圖にこれを副わせ、称職と聞こえた。
  • 清寧初め、長寧・匡義の二軍節度使を歴任し致仕し、咸雍間卒した。子阿古齊は倒塌嶺都監に終わった。

史論

  • 論じて言う。罕巴は帝の微行によって才が初めて売られたが、事を任せるに及んでは落落として大体を知り、上の知遇に負かなかった。唐古・珠展は西北辺を経略し農を勧め粟を積み士卒を訓練し敵人は敢えて犯さなかった。玦は忠直をもって上に称され、布勒圖は幹敏をもって宰相の佐となり鎮にあって共に獄が空であると聞こえた。この数人は特に甲胄の士のみならず、李牧・程不識に亜ぐ者ではなかろうか。