遼史卷九十 列傳第二十 耶律義先

耶律義先

  • 耶律義先、裕悦仁先の弟。美しい風姿で挙止は厳重であった。重熙初め、祗候郎君に補され班詳衮となった。重熙13年(1044年)、車駕西征に十二行糺都監として従い戦功が最も優れ、南院宣徽使に改まった。
  • 時に蕭格が同知樞密院事として寵を席り権を専らにしており、義先はこれを疾んで侍讌の際帝に「格は狡佞で乱を喜び、一朝大用されれば必ず国家を誤りましょう」と言葉甚だ激切に言ったが納れられなかった。ある日侍宴で上が群臣に博をさせ負けた者に一巨觥の罰を命じた際、義先は格と対する番になり憮然として「臣は縦えば賢を進め不肖を退けることができぬとも、どうして国賊と博を打てましょうか」と言った。帝はこれを止めて「そなたは酔っている」と言ったが、義先は厲声で詬り続け、上は大いに怒ったが皇后が救って解けた。
  • 翌日、上が格に「義先は無礼だ、黜けるべきだ」と言うと、格は「義先は天性忠直です。今、酒の失で出せば、誰が人の過ちを言おうとしましょうか」と対えた。上は格を忠直と思いますます信任を加え、義先は鬱鬱として自ら得なかった。しかし事を議するのに少しも沮まなかった。また上の前で博を打った際、義先は祝って「先に人の過ちを言い天威を冐犯しましたが、今日の一擲で愚款を表すことができましょう」と言い、間もなく堂印を得ると、上は愕然とした。
  • 重熙16年(1047年)、殿前都点検となり富珠哩を討ち多くを招降し、その酋長托多羅を獲て帰った。手詔で褒奨され、その功により南京統軍使に改まり武昌郡王に封ぜられた。統軍司の銭で息を営み貧民を贍うことを奏請し、朞ならずして軍器は完整し民は休息を得た。
  • 重熙21年(1052年)、特哩衮を拝し富春王に進封され、薨じた。年42。義先はかつて族人を戒めて「国中の三父房は皆帝の昆弟であり、不孝不義は特にしてはならぬ」と言った。その下に接するに貴賤賢否を問わず皆均しく礼を与えた。妻は晉国長公主の女で、中表の親に遇うたびに礼服にあらざれば見えなかった。ゆえに内外の多くが感化された。清寧間、許王を追贈された。弟に信先。