耶律庶成
- 耶律庶成、字は喜隱、小字は辰賚。季父房の後で、父烏津は検校太師。庶成は幼くして学を好み、書は一度見れば忘れず、遼漢の文字を善くし、詩に特に工みであった。
- 重熙初め、牌印郎君に補され、たびたび昇進して樞密直学士となり、蕭罕嘉努と各々「四時逸楽賦」を進めると帝は嗟賞した。
- 初め契丹の医人は切脈・審薬を知る者が少なく、上は庶成に方脈書を訳させて行わせると、これより人は皆通習し諸部族もまた医事を知るようになった。時に禁中に入って疑議を参決し、林牙蕭罕嘉努らと共に実録及び礼書を撰し、樞密副使耶律徳修と共に法令を定めた。
- 上は庶成に詔して「今、法令の軽重は不倫であり、法令は政の先とすべきもので人命に係わる、慎まねばならぬ。そなたは軽重を審度し宜に従って修定せよ」と言い、庶成は古今を参酌し訛謬を刋正して書を成して進め、帝はこれを覧て善しとした。
- 庶成が方に用いられようとした時、妻呼敦に誣告されて罪に問われ官を奪われ庶人に絀された。耶律使として吐蕃に十二年、清寧間になって初めて帰った。帝はその誣であったことを知り本族に復すよう詔し、奪った官もまた遷させた。卒した。
- 庶成はかつて林牙にあった時、夢を善くする占者呼嚕古が占って「官は林牙止まりであろう。妻によって罪を得、理に置かれれば法として離婚すべきだ」と言った。呼敦は折しも身ごもっていたが、期に至って産まれず死に、剖いて視ると子は手で心を抱いていた。識者は夫を誣告した報いだと言った。詩文が世に行われた。弟に庶箴。