遼史卷八十八 列傳第十八 恒徳

恒徳

  • 恒徳、字は遜寧。膽略あり善謀。統和元年(983年)、越国公主を娶り駙馬都尉を拝し、南面林牙に遷り宣徽使耶律阿穆爾に従って高麗を征し還った。北面林牙に改まり、折しも宋将曹彬・米信が燕を侵すと、耶律休格は恒徳と軍事を議し多く信用された。東京留守となった。
  • 統和6年(988年)、上が宋を攻め沙堆を囲む際、恒徳は独りで一面を当たり、城上の矢石が雨のようであったが恒徳は意気自若として将士を督して陴を奪い、城が陥ちる際流矢に中った。太后は自ら臨視し薬を賜った。長城口を攻め再び先登し、太后はますますその功を多とした。
  • 当時高麗はまだ帰附しておらず、恒徳は詔を受け兵を率いてその辺城を抜いた。王は初めて懼れ表を上して降を請うた。統和12年(994年)8月、啓聖竭力功臣を賜り、都部署和碩鼐に従って烏舎を討った。未だ戦わずして烏舍は降を請うたが、恒徳はその俘獲を利としてこれを許さず、烏舍は死戦し城は抜けなかった。
  • 和碩鼐は退こうとしたが恒徳は言った。「彼が倔強であるからと言って、我らが詔を奉じて討ちに来て功無くして還れば、諸部は我らを何と言うか。深く入って多く獲るほうが、徒に帰るよりまだましだ」。和碩鼐はやむを得ず進撃し東南諸部から高麗北鄙に至ったが、還る際に道が遠く糧が絶え士馬の死傷が甚だ多かった。これに坐して功臣号を削られた。
  • 統和14年(996年)、行軍都部署となり博囉滿達勒を伐って還ると、公主が病に罹り太后は宮人賢釋を遣ってこれに侍らせたが、恒徳はこれと私通した。公主は恚って薨じ、太后は怒って恒徳に死を賜った。後に蘭陵郡王を追封された。子は必塔。