謀反の疑いで一族を誅された旧臣
- 髙勲、字は鼎臣。晋の北平王高信韜の子。通達で聡明な人柄。晋に仕えて閤門使を務め、会同九年に杜重威と共に降り、太宗の汴京入城後は四方館使を授かった。権貴と結び大臣に推挙されることが多く、天祿年間、樞密使として漢軍事を統轄した。天祿五年、北漢の劉崇の求めに応じ大漢神武皇帝として冊立した。応厯初年、趙王に封じられ上京留守として出、まもなく南京に移った。宋が益津に城を築こうとした際、勲は巡徼にかこつけて妨害を上奏し帝はこれに従い、宋は結局築城できなかった。
- 応厯十七年、宋が益津関を掠めた際にこれを撃退し南院枢密事を知った。景宗即位後、擁立の功により秦王に進んだ。保寧年間、南京郊内の荒地に稲作を導入しようと上申し帝も許そうとしたが、林牙耶律昆が「勲のこの上奏には異心があるのでは。稲作のため水路を巡らせれば、京師に入る叛官軍の経路になる」と朝廷に諫言し、帝は疑いを抱いて許さなかった。
- まもなく南院枢密使に遷ったが、駙馬都尉蕭卓林に毒薬を贈った罪が露見して銅州に流され、さらに尚書令蕭思温の暗殺を謀ったことが発覚し、詔により一族を誅せられ、財産は思温の家に賜られた。