蔚州攻防で功を挙げた将
- 耶律托色、字は勝隱。北府宰相烏里の孫で弓術・画に長けた。保寧年間、御盞郎君となり、保寧九年、北漢への使者として両国の長久の親善を説き、北漢主劉継元に厚く遇された。統和二年、西辺詳衮耶律蘇色と共に図勒錦を討伐し大破した。統和四年、宋将楊継業が山西城邑を陥した際、北院枢密使耶律色珍に従いこれを撃ち、賀令図を定安で破り西南面招討都監を授かった。
- 宋軍が蔚州を守り援軍を急いで求めた際、托色は夜、道端に伏兵を仕込み、明け方に宋軍が半ばまで進んだところを撃ち、城中の軍も出て色珍が背後から挟撃、両軍とも潰えて飛狐の隘路に逃げ込んだところで殺傷が多く出た。賀令図が敗残兵を集めて蔚州を襲おうとした際も托色は迎え撃って破り、応州の守将も自ら退いた。寰州を包囲した際も矢石を冒して城壁に登り宋軍を大いに潰走させた。色珍が朔州で継業を捕らえた際、托色の功が最も大きかった。同年冬、蕭達林と共に東路から宋を撃ち多くを捕獲、後に宋軍が易州に屯すると聞き軍を率いて向かう途中、易州境で卒した。
- かつて托色が賀令図を破った際、負傷して倒れた宋将の様子を絵に描いて宋人に示し、その神妙さに宋人は皆感嘆したという。