南京籠城戦を守り抜いた守将
- 耶律學古、字は伊實揚。裕悦斡の庶孫で、聡明で学を好み通訳・詩に長けた。保寧年間、御盞郎君に補せられる。乾亨元年、宋が河東を陥し勝勢に乗じて燕を侵した際、詔により救援に赴くが、到着前に宋は耶律希達・蕭托果らを破り、勢いは増して南京を三重に包囲、地下道まで掘って攻めた。城中の民心が動揺する中、學古は計をもってこれを鎮め、状況に応じて防備を整え昼夜怠らなかった。
- ある時、敵の三百余人が夜に城壁に登ったが、學古はこれを撃退した。援軍が到着し包囲が解けると、學古は門を開き四面に陣を敷き、居民に鼓を打って大声を上げさせ、その声は天地に響いた。まもなく高梁河の勝利があり、學古は功により保静軍節度使を遥授され南京馬歩軍都指揮使となった。統和二年、宋討伐に漢軍を率いることを願い出て許され、彰国軍節度使に改まった。南境の民が休息を望む中、學古は寇掠を禁じて安定させた。
- 宋将潘美が分道して来侵した際、學古は兵が少ないため旗幟を大量に立て丁壮に黄色い装束をつけて疑兵とし、独虎峪で烽火を挙げ偵察させたところ、敵が村々を掠奪しているのを発見し攻撃、奪われた物をすべて奪還し敵将を捕らえた。以後、學古と潘美は互いに境を侵さぬ約定を結び、民は生業に安んじた。功により特哩衮となり卒した。弟は額布勒。
額布勒(耶律學古の弟)――韓徳讓に推挙された統軍使
- 額布勒、字は留隱。厳格で膂力があり文章にも優れた。統和年間、宋討伐にしばしば軍事を任された。揚珠と不仲になった際「お前ごとき奴才に何が分かる」と言い放ち、揚珠は北院枢密使韓徳讓に訴えた。徳讓が怒って「どこの奴を持っているのか」と問うと、額布勒は「三父の代が違えば身分も容易に変わるもの」と答え、徳讓は笑って許した。
- のち蕭恒徳の博囉滿達勒討伐に従い功により東路統軍都監となった。徳讓が大丞相となった際、額布勒を統軍使に推薦しようとすると、太后は「額布勒はかつてお前に不遜であったのに、なぜ推薦するのか」と問うた。徳讓は「臣は宰相の位にありながら屈することがなかった。まして他の者に対しては言うまでもない。この点から見て用いるに値し、必ずや諸番を鎮撫できるだろう」と答え、太后はこれに従った。金紫崇禄大夫・検校太尉を加えられた。
- 弟の果囉が罪を犯して逃亡した際、額布勒と母が共に取り調べを受けたが、母への累が及ぶことを恐れ、密かに人を送り「太后は事の誣告と知っている、恐れず戻れ」と果囉を欺いて呼び戻し、有司に送って誅させた。のち退いて田里に帰り、病により卒した。
史論
- 論にいう。宋が太原陥落の勢いに乗じて燕を包囲し、続いて曹彬・楊継業らを分道で攻め寄せた両役では、遼も危殆に瀕した。休格が高梁河で奮撃して敵兵を潰走させ、色珍が朔州で継業を捕らえて旧地を回復し、以後宋が深入りしなくなったことで社稷は固まり辺境は安寧を得た。両者の功は古の名将にも劣らない。しかし學古が南京にあって民心を鎮めなければ、二将の功も成し難かったであろう。国が人材によって重んじられるとはこのことである。