宋との和議に尽力した降将
- 王繼忠、出身地は不詳。宋に仕えて鄆州刺史・殿前都虞候となった。統和二十一年、宋は繼忠に定州・望都に駐屯させ、軽騎で遼軍を偵察させたが、南府宰相耶律諾衮らに捕らえられた。太后はその賢を知り戸部使に任じ、康黙記の一族の娘を娶らせた。繼忠も奮起して事に尽力した。
- 宋は繼忠が旧臣であることから使者を送るたびに物を贈り、聖宗もこれを受け取ることを許した。統和二十二年、宋の使者が繼忠に弓矢・鞭策を贈り、和議を求める文書には「即位以来、民を愛養し窮兵を望まず、休戦のみを願ってきた。辺境の役人に境界を侵させぬよう厳命してきたことは北界の人民もみな知るところ。以前、雄州の知事何承矩を通じてこの意を伝えたが、その後音沙汰がない。密かに『和議を望むなら別に使者を送るように』と伝えてほしい」との内容があった。詔により繼忠は宋の使者と会見し、講和を許された。
- 繼忠には奴隷がいなかったため宮戸三十を賜り、左武衛上将軍・中京留守を摂した。開泰五年、漢人行宮都部署として琅邪郡王、翌年楚王に進み国姓(耶律氏)を賜った。帝が蕭和卓を北院枢密使にしようとした際、繼忠は「和卓は刀筆の才はあるが大局に暗い。蕭迪里こそ才行兼備で任じられる」と諫めたが聞き入れられず、和卓が任じられた。後に和卓の高麗遠征に副部署として従い興化鎮を攻めたが陥落させられなかった。帰還後、帝は繼忠の人物眼を評価し枢密使に任じた。太平三年、致仕して卒した。子の懐玉は防禦使に至った。