遼史卷八十 列傳第十 耶律巴格

高麗遠征で慎重な策を進言する

  • 耶律巴格、字は烏庫哩。五院部の人で、幼くして聡慧、一度読んだ書はすぐに暗誦した。統和年間、世業により本部の吏となり、扎薩克轄に昇進、枢密院侍御に転じた。宋将曹彬・米信の燕侵攻に際して扈従の功をあげ、上京留守に抜擢された。
  • 開泰四年、北院枢密副使に召され、東京留守を兼ねた。開泰七年、東平王蕭巴雅爾の高麗討伐に都監として従い、開京まで進んで大掠して帰還した。茶陀・二河を渡る際、高麗の追兵が迫り、諸将は河を渡らせてから撃つことを望んだが、巴格は「敵が河を渡れば必死の戦いとなり危うい。むしろ両河の間で撃つべき」と独り主張した。巴雅爾はこれに従わず戦って敗績した。
  • 翌年、東京に戻って渤海の承奉官を統率する官の設置を上奏し都知押班が置かれた。のち茶陀の敗戦により使相を削られ西北路都監に降されて卒した。

史論

  • 論にいう。張儉は帝の夢に符合した縁で君主の信を得、敝れた袍を替えずに志を通し薄俗を篤くした。功績は両朝にわたり、賢相と称されたのは過言ではない。邢抱朴は守令の能否を鑑別して大いに人望に叶い、滞獄を裁いて民に冤罪を出さなかった。馬得臣は盛唐の治を引いて君を諫めた。蕭朴は皇后の冤罪を悼み血を吐くまでに至った。この四人はいずれも経学を修めて忠誠の位に至った者たちであり、聖宗の代に人材を得たことがここに極まっている。