遼史卷八十 列傳第十 蕭朴

皇后の冤罪を悼み血を吐いた宰相

  • 蕭朴、字は延寧。国舅少父房の一族で、父の魯庫は文才により聖宗の詩友であった。朴は幼くして老成しており、長じて博学多智となった。開泰初年、牌印郎君に補せられ南院承旨として転運事を代行し、まもなく南面林牙に改まった。帝に政の要諦を問われ百姓の疾苦と国用の豊耗を具に述べたところ、帝は「良き人材を得た」と喜び、左伊勒希巴に抜擢した。
  • 当時、樞密使の蕭和卓が部署院を酒に溺れて疎かにしたため、朴は興国軍節度使として出て、後に召されて南面林牙に復した。太平三年、太子太傅を守り、翌年北府宰相を拝命、北院枢密使に遷った。太平の日が続く中、帝は書画に心を寄せ嫡庶を区分する譜牒を作らせたため訴訟が頻発したが、朴は吏才を発揮し帝の意を汲んで奏事し、朝議の多くが朴の意見に決した。蘭陵郡王に封じられ王恒に進み政事令を加えられた。大延琳の反乱に際しては東京の安撫を命じられ便宜に処した。
  • 興宗即位後、皇太后の称制で国事は弟の孝先に一任されたが、仁徳皇后が馮嘉努の讒言により害された際、朴は幾度もその冤罪を訴えたが聞き入れられず、そのたびに憤り血を吐くほどであった。重熙初年、王韓に改まり東京留守を拝命。太后が慶州に遷された際には楚王に徙封され南院枢密使に昇進。重熙四年、魏王として薨じ、齊王を追贈され50歳であった。子の道拉は国舅詳衮となった。