清廉な宰相
- 室昉、字は夢竒。南京の人で、幼くして謹厚篤学、20年間外出しなかったため近隣の者も彼の顔を知らなかったほどであった。会同初年、進士に及第し盧龍巡捕官となる。太宗が汴京で受冊礼を行った際、詔により知制誥となり礼儀を統轄。天祿年間、南京留守判官、応厯年間には翰林学士として長く宮中に出入りした。
- 保寧年間、政事舎人を兼ね古今の治乱得失について問われ、称旨を得た。南院副留守に改められ、訴訟を公平に裁いて評判となり、工部尚書、枢密副使・参知政事、枢密使兼北府宰相、同政事門下平章事へと進んだ。乾亨初年、監修国史となる。
- 統和元年、致仕を願い出たが許されず、『尚書』無逸篇を進めて太后を諫め、称賛を受けた。統和二年秋には嶺路の修築のため民夫二十万人を発し、一日で完成させた。
- この頃、昉は韓徳讓・耶律色珍と親しく相互に補い合いながら政務を輔け、弊害を整理し民の負担軽減に努めたため、法度は整い朝廷に異論がなかった。統和八年、再び致仕を願うと、入朝を免じ几杖を賜り、太后は使者を送って労い南京に常住させ鄭国公に封じた。
- 晋国公主が南京に仏寺を建てた際、額を賜ろうとする帝に、昉は「無名の寺院を禁じた詔書があるのに、これを許せば風潮が助長される」と諫め、帝はこれに従った。撰した『実録』二十巻を進呈し、政事令を加えられ帛六百匹を賜った。
- 統和九年、韓徳讓を後任に推薦したが聞き入れられず、老齢と寒さを理由に貂皮の衾褥を賜り輦での入朝を許された。病が篤くなると翰林学士張幹を遣わして中京留守を授け、尚父を加えられ、75歳で卒した。帝は嘆き二日間朝を輟め、尚書令を贈った。遺言により厚葬を戒め、自ら墓誌を記した。