河東の防衛に功を挙げる
- 耶律塔拉、字は尼嚕古。六院部郎君尼古察の後裔で、沈着で知略に富んだ人物。40歳になっても仕官しなかったが、会同年間に辺部令公となり、応厯初年に南院大王に昇進、賦役を均しくし農耕を勧め、部民に慕われた。
- 後周が北漢を攻めた際、塔拉が西南道軍を統べて援軍に赴き、太原周辺の後周軍を破って将の史彦超を討ち取り、奪われた城邑を回復した。北漢主はこれに謝意を表した。
- 北漢主没後、宋の来攻に際しても行軍都統として出陣したが、宋側が事前に情報を得て退いたため戦わずに終わった。保寧元年、政事令を兼ね致仕。乾亨初年、召見された際もなお矍鑠としており、帝は厚く遇した。まもなく病により79歳で薨じた。
- 塔拉は用兵において賞罰が明確で士卒の信望を集め、河東が周・宋に併呑されずに済んだのは塔拉の功が大きいとされる。治政では飾らぬ人柄で百姓の評判は目立たなかったが、豊作が続いた。耶律烏哲が北院、塔拉が南院にあった時期、ともに善政をもって知られ、「富民大王」と称された。
史論
- 賛にいう。嫡子を立てるのは礼である。太宗の崩御に際し、安圖・吼・斡が謀って果断に決したのでなければ、そして烏哲が直言して太后の私情を諫め魯呼の暴を退けなければ、横渡の和議は成らなかったであろう。乱を鎮めたのはこの四臣であり、その功績は春秋時代の「首止の会」で嫡子擁立を果たした故事にも比すべきものである。