生涯
- 字は裕勒沁。六院部博果濟額爾竒木の後裔、父烏蘓も額爾竒木であった。太祖が裕悦だったころ謹厚な人柄を見込まれ、即位後は兄赫嚕が宿衛を典る中、迪里は帷幄に入り政に参与した。神冊3年、赫嚕の薨去により徳哷勒部の額爾竒木となり南方の事を委ねられ、党項討伐では皇太子の先鋒を補佐し天徳・雲内で軍を分け黄河を渡って力戦した。天贊初め、徳哷勒部が北南院に分かれた際は南方を巡り燕地攻略で功をあげ、渤海遠征でも扶餘城攻略に功があり、伊徳実とともに守備を任された。天顯2年に南京留守、10年に56歳で卒した。弟に伊濟。
伊濟(附伝)
- 小字は烏里、字は伊徳森。幼くして豪爽で並外れ、学を好んで諸部の言語に通じた。太祖の経営期からたびたび軍議に参与。天顯元年、渤海平定後に皇太子が東丹王に立てられると中臺省右次相となり、左大相迪里が急逝した後は政務に精励し威信を得た。太宗即位に際し、東丹の民を故地から遠く離れた輝罕城に留めておくのは危険であり、旧地梁水(豊沃で木鉄塩魚の利あり)に還すべきとの上表を行い、太宗はこれを嘉納して東丹国民の梁水移住を詔した。
- 東丹王(人皇王)が唐に亡命した後も、伊濟は国人を鎮撫し変わらぬ統治を続けた功により守太傅、中臺省左相に進んだ。会同初め冊礼で入朝し特進を加えられ、左次相として渤海の蘇貪の不法を上奏し処断させた。子の和哩は東京留守に至った。