遼史卷七十四 列傳第四 韓知古

生涯

  • 薊州玉田の人。謀を善くし識量あり。太祖の薊州平定の際、6歳で淳欽皇后の兄欲穩に得られ、后の輿入れに従ったが久しく親しく用いられず、不遇を抱いて庸保として身を立てていた。子の匡嗣が太祖に近侍したことから縁あって召見され、その賢を認められて謀議に参与するようになった。神冊初め彰武軍節度使を遥授され、信任は篤く漢児司事を統べ諸国礼儀も掌った。当時儀法が疎かであったのを、故典を援用し国俗と漢儀を折衷して制度を整えた。左僕射に拝され、康黙記とともに漢軍を率いて渤海遠征に功をあげ、政事令に遷り天顯中に卒した。佐命功臣の一人。子に匡嗣。

匡嗣(附伝)

  • 医術に優れ長楽宮に仕え、皇后に実子のごとく遇された。応暦10年、太祖廟の詳衮。宋王喜隱の謀反に連座を疑われたが不問に付された。景宗の藩邸時代から親しく、即位後上京留守、後に南京留守、保寧末には留守のまま樞密使を摂した。耶律和克の宋出兵警告を軽視し、宋が太原を取って燕に迫った際、南府宰相沙特哩とともに満城で宋軍に対陣。休格の慎重論を退けて降兵を受け入れようとした結果、宋軍の反撃に遭い大敗を喫し旗鼓を捨てて敗走、休格が辛うじて全軍を収めて帰還させた。太宗は「衆議に背き深入りし、号令が乱れ、軍を捨てて逃げ、偵察を怠り、旗鼓を失った」と五つの罪を数えて誅を命じたが、皇后の取りなしで杖罰に減じられ、後に晉昌軍節度使、乾亨2年西南面招討使に遷り卒した。睿智皇后は使者を送って厚く弔った。尚書令を追贈。5子は德源・德讓(後に隆運と改名)・德威・德崇・德凝。德源・德凝は附伝、他は各々伝がある。

德源(附伝)

  • 愚かで貪欲な性格。景宗の藩邸に早くから仕え、即位後は近侍に列し、保寧間、崇義・興国二軍節度使兼検校太師となったが、賄賂で名を落とし弟德讓の諫めにも改めず、識者に軽んじられた。後に同政事門下平章事・保寧軍節度使を遥摂し乾亨初に卒した。

德凝(附伝)

  • 謙遜廉謹。保寧中、護軍司徒。統和中、護衞太保・都宮使・崇義軍節度使を歴任し、広德軍に転じた際は治績を惜しんだ民の願いで留任、後に西南面招討使として党項の隆伊特の叛乱を平定、大同軍節度使に遷って任地で卒した。子の果桑は天德軍節度使、孫の髙嘉努は南院宣徽使、果實は遼興軍節度使に至った。