生涯
- 字は藏明。幽州安次の人、父は薊・儒・順三州の刺史夢殷。若くして英敏、幽州の劉仁恭に見出され幽都府文学・平州録事参軍・馮道と並ぶ祗候院・幽州観察度支使を歴任。劉守光の使者として太祖のもとへ赴いた際、屈しない態度に太祖は怒って抑留したが、淳欽皇后が「節を曲げぬ賢者を辱めるべきでない」と諫め、太祖も語り合って意にかない軍事に参与させた。党項・室韋・諸部落を服属させる策を多く献じ、城郭・市里を建てて漢人の降者を住まわせ、婚姻・墾田の制を整えて逃亡を減らした。
- 望郷の念から一時唐へ逃れたが、他将との軋轢を恐れて幽州の旧友王徳明のもとに身を隠した際、「契丹は私を失えば手足を失うも同然、きっと喜んで迎えるだろう」と語って太祖のもとへ戻った。太祖の問いに「忘親は不孝、棄君は不忠。逃げても心は常に陛下にあった、それゆえ戻った」と答え、太祖は大いに喜び「實喇」の名を賜って守政事事兼崇文館大学士に任じ、内外の政務すべてに参与させた。
- 天贊4年の渤海遠征、大諲譔の再叛鎮圧、康黙記との長嶺府攻略で功をあげ左僕射に拝された。太祖崩御の際は哀悼を極め、太宗朝で魯国公・政事令、後晋への使いを経て南京三司使、世宗朝で南府宰相・政事省設置に尽力した。天祿5年、河東の冊礼制定を委ねられ太宗の旧例に倣った制を定めた。応暦中に致仕し、子德樞が東平に鎮する際は毎歳の帰省を許され、9年に78歳で卒し尚書令を贈られ幽州の魯郭に葬られた。「崇文令公」として世襲された。
- 太祖は延徽が唐から戻る前夜、白鶴が帳から出て再び戻る夢を見て「延徽が来る」と語ったとされ、皇都・宮殿の建設、君臣・名分・法度の整備において延徽の功が大きく、佐命功臣の一人に数えられた。
德樞(附伝)
- 韓延徽の子。15歳のとき太宗に「わが国の福、朕の宝」と評され、未冠で左羽林大将軍・特進太尉。漢人の流民が多く寓した東平が飢饉・疫病に見舞われた際、遼興軍節度使として撫恤に努め、農桑を興し教化を広めた。南院宣徽使・天平軍節度使兼平・灤・営三州観察処置使・門下平章事・開府儀同三司行侍中・趙国公を歴任し、保寧元年に卒した。孫に紹勲・紹芳。
紹勲(附伝)
- 東京戸部使に至り、大延琳の叛乱時に捕らえられ屈せず、鋸で解かれる刑に処されても最期まで賊を罵り続けた。
紹芳(附伝)
- 重熙間、参知政事兼侍中。李元昊征討の廷議に反対したが容れられず、広德軍節度使として出され、敗報を聞いて嘔血し卒した。子に資讓。
資讓(附伝)
- 壽隆初、中書侍郎平章事。宋の徽宗即位に際し使者を送ったが、有司の記録に「登寶位」の文言があったため罪に問われ、崇義軍節度使に出され、遼興軍に移されて卒した。