序文
- 司馬遷は『史記』において、四方の異民族の記事を篇末にまとめて叙述した。秦漢以降、それぞれの国には固有の領域があり、境界も道里も遠く隔たっていたため、天下をあまねく知り尽くすことはできなかった。諸部族の名や隣国との朝貢往来についても、伝聞や記憶に頼って大略を書き留めるにとどまった。
- 遼は五代の漢地に隣接しており、その遠近は書物に記録され考証できる。しかし西北の砂漠地帯については、五穀の栽培、衣服・車馬・礼の制度、土地の産物などは、その大略は伝わっても細部は失われている。部族の名や姓氏の呼び名も、音は伝わっても文字までは伝わらず、代々誤りが重なって考証が難しい。
- 遼は諸部族と往来し朝貢関係を結んでおり、西遼の勢力が及んだ地域についても本紀・列伝に見えるものは決して少なくない。その事跡は本紀に記し、部族については表に列記する。
表の記載
- 原本は部族ごとの往来・朝貢を年月順に列記した表であるが、底本のテキスト化に伴い罫線・配置の構造は失われ、大部分は丁付け(頁境界)の記号のみが残っている。
- 表末に残る記述として、次の一文がある。
- 天祚帝が各地を流浪する中、耶律達實(耶律大石)は燕晋国王の淳(耶律淳)を擁立した。淳の死後、蕭妃とともに天徳軍へ逃れたが、天祚帝は蕭妃を誅殺し達實の責任を問うた。達實は部衆を率いて西方へ去り、自ら皇帝を称した。その後経由した諸部族については、以下に付記する(と記すのみで、続く部族の列記自体は底本のレイアウト喪失により再現できない)。