序文
- 漢代の外戚には王莽による「新」の簒奪という災いがあり、晋の宗室には八王の乱という難があった。遼の歴史でも耶律氏・蕭氏の外戚が十中八九を占め、宗室と外戚は勢力を分かち合い互いに支え合う関係にあった。国家を支えるという点では一つの道理だが、それによって興隆した面もあれば、それによって滅亡を招いた面もある。これもまたその制度の弊害である。
- 契丹の外戚は、その先祖を二つの舒敏氏、巴哩氏、伊蘇濟勒氏という。遼の太祖に至って舒嚕氏を娶った。舒嚕氏はもと回鶻の諾蘇の後裔である。大同元年、太宗が汴京から帰還する際、外戚の小漢を汴州節度使として留め、蕭翰の姓名を賜って中華の風習に従わせた。これにより巴哩・伊蘇濟勒・舒嚕の三族はみな蕭姓を名乗るようになった。巴哩氏は大父・少父の二房に分かれ、伊蘇濟勒氏も大翁・小翁の二房に分かれる。
- 世宗は舅氏の塔喇噶を国舅別部とし、この三族は代々北府宰相の候補に列せられた。太祖の神冊二年、阿古齊にこの職を命じたのが始まりである。聖宗の代になり、巴哩・伊蘇濟勒の二つの国舅帳を一つに合わせ、別部と合わせて二つとした。これが遼の外戚の始終である。ここに外戚表を作成する。
表の記載
- 原本は外戚諸族の系図を罫線・配置による図表の形で示したものだが、底本のテキスト化に伴い罫線・配置の構造は失われ、丁付け(頁境界)の記号のみが残り、判読できる断片は残っていない。