興宗期
- 興宗が即位すると欽哀皇后が実権を握り、その昆弟が権を専らにした。馮嘉努らは欽哀の意に迎合して蕭楚布らが謀反したと誣告し、嫡后仁徳皇后にまで累が及び、楚布らと仁徳の姻戚関係のあった者、罪に問われた四十余人がすべて大辟(死刑)に処され、家も籍没された。仁徳は上京に幽閉され、まもなく人を遣わして弑された。非命の死に中外は切に憤った。欽哀太后はさらに廃立を謀って慶州に遷されたが、迎えられて戻ると再び政事に関与するようになり、その酷虐は止められなかった。しかし興宗は名を好み変更を喜び、また仏法に溺れて小恵を施すことを好み、たびたび赦令を下して死刑を免れる者が多かった。
- 重熙元年、職事官の公罪は贖罪を聴し、私罪は各々本法に従うこと、子弟や家人が賄賂を受けても情を知らなければ本人のみを罰することとした。以前は南京の三司で銭を溶かして器皿を作った場合、三斤で処罰、南京から銭十貫を持ち出した場合や失火で物を五貫盗んだ場合は死刑としていたが、この時から銅五斤を超える場合、または銭・盗品が二十貫以上の場合に死刑とした。重熙二年、有司が元年の詔について「重罪で終身徒刑に処す者に捶楚(杖打ち)を加え、さらに黥面するのは一罪に三刑を科すことになる。黥を免ずべきである。職事官・宰相・節度使など世選の家の子孫が姦罪を犯し徒刑に至る場合、黥にすべきかどうか未審である」と上奏すると、帝は「罪を犯しても悔い改めて自ら新たにする者もいる。一度黥面すれば終身の辱となる。朕はこれを甚だ憐れむ。以後、終身徒刑となる者は頸のみを刺すこととし、奴婢が逃亡または主の物を盗んだ場合も、主は擅にその面を黥してはならず、臂と頸を刺すにとどめよ。窃盗を犯した者は初犯で右臂、再犯で左臂、三犯で頸の右、四犯で頸の左を刺し、五犯に至れば死刑とする」と論した。重熙五年、新たな条制が定まり、朝日に有司へ執行させ諸道に頒行するよう詔した。これは太祖以来の法令を纂修し古制を参酌したもので、その刑には死・流・杖および三等の徒があり、全部で五百四十七条であった。
- 当時、群牧の人が官印を盗み馬とともに人に与えた事件があり、法は死刑に当たったが、帝は「一頭の馬のために二人を殺すのは甚だしすぎる」と言って死を減じた。また兄弟で強盗を犯し死刑に当たる者があったが、弟が兄に従っただけであり、ともに子がなかったため特にその弟を原(許)した。枉法受賄・詔勅の詐り・偽学御書・外国貢物の窃盗などについても例として皆死を免じた。郡王塔布の家奴黙爾吉が主を怨望する言を告げたが、鞫問しても証拠がなく反坐に当たるところ、欽哀皇后の裏言により罪を加えず、また主に付し戻すこともなく籍没にとどめた。寧遠軍節度使蕭白は烏爾古の徳哷勒都詳衮達魯の娘を強掠して妻としたが、皇后の言により死を免れ杖罪にとどめ、官を奪った。羙楞彀登は酒に酔って人を殺し逃亡したが、永寿節に自首して赦された。皇妹秦国公主の誕生日に帝がその邸に行幸した際、伶人張隋が宋の遣わした間諜であったが、大臣がこれを知り帝に聞いたところ、詰問すると欵伏(自白)したがすぐに釈放された。以後、諸職官が私に官物を取った場合は正盗の罪とするよう詔した。諸帳郎君らが禁地で鹿を射た場合、決杖三百で賠償は不要とし、小将軍は二百、百姓が犯した場合は三百とした。聖宗の頃の風はここに衰えた。
道宗期
- 道宗の清寧元年、諸宮都部署に「機密の事があれば直ちに面奏せよ。その他の訴えは法に従って処理せよ。誹謗の書を投じた者、これを受け取り読んだ者はすべて棄市とする」と詔した。清寧二年、諸郡の長吏が諸部の例に倣い僚属とともに罪囚を決し、獄中で枉死する者がないようにするよう命じた。「先には諸路の死刑はすべて朝廷での決を待つため獄が滞っていた。今後は強盗で証拠が確実な者は即座に決してよい」と詔した。清寧四年、左伊勒希巴に「先に外路の死刑を所在の官司が即決できるようにしたが、まだその実情を尽くせず寃罪の恐れがある。今後は本人が欵伏していても附近の官司に覆問させ、寃がないことを確認した上で決せよ。寃がある場合は具(つぶ)さに聞け」と改めて詔した。咸雍元年、家のない獄囚に糧を給するよう詔した。咸雍六年、帝は契丹と漢人の風俗が異なるため国法も画一にできないとし、特哩衮蘇の枢密使伊遜に条制を更定させ、律令に合うものはそのまま載せ、合わないものは別に存させた。当時、校定官は重熙の旧制で窃盗贓二十五貫で死刑となっていたのを五十貫に増やし、重複する二条を刪って五百四十五条とし、律から百七十三条を取り、さらに七十一条を新たに増やして七百八十九条とした。増補された編は千余条に及び、太康年間に定められたものを分類編纂し、その後さらに律および条例と照らして三十六条を続けて増やし、大安三年まで続いてさらに六十七条を増やした。条約が繁雑になると典拠を扱う者もこれを徧く習うことができず、愚民は避けるべきところを知らず犯法者が増え、吏はこれに乗じて姦をなすようになった。咸雍五年(原文のまま)、「法とは民に信を示し国の治を致すためのものであり、簡易なることは天地のごとく、四時のごとく違うことなく、民が避けられて犯せないものでなければならない。先に有司に刑法を纂修させたが、本旨を明らかにできず、多くの条目を作って民を罪に陥れることになった。朕はこれをまったく取らない。今後は再び旧法を用い、それ以外はすべて廃止せよ」と詔した。
- しかし太康元年より、北院枢密使耶律伊遜らが権を用い、宮婢単登らが宣懿皇后を誣告し、伊遜がこれを聞いて詔により状を劾し、その罪を実として上げると、帝は怒って伶人趙惟一を族殺し、高長命を斬りともにその家を籍没し、皇后には自尽を賜った。太康三年、伊遜はその党とともに昭懐太子を陥れようと謀り、右護衛太保耶律扎拉に知枢密院事蕭蘇色ら八人が皇太子を擁立しようとしていると密告させたが、詔で調べても証拠がなく、蘇色・托卜嘉は外に流され、護衛薩布ら六人には、謀逆の首謀者を告発すれば重く賞し、さもなくばことごとく誅戮すると詔した。伊遜は牌印郎君蕭額図琿に、自らが蘇色らの謀に参与したと自首させ、その姓名を挙げて告発させたところ帝はこれを信じ、伊遜らに鞫案させ、皇太子を杖打って宮中の別室に囚え、托卜嘉・薩喇ら三十五人を殺し、蘇色らの子や幼稚な者、婦女・奴婢まで家産を籍没し、あるいは群臣に分賜した。雅克らが太子謀反の偽の書を作って聞かせると帝は大いに怒り太子を廃して上京に徙し、伊遜はまもなく人を遣わして囚所で太子を弑した。帝はなお悟らず、朝廷の上下は紀律を失った。
- 天祚の乾統元年、太康三年に伊遜に害された者はすべて官爵を復し、籍没された者は財を出され、流された者も郷里に還された。乾統二年、伊遜らの墓が発かれ棺を剖いて屍を戮し、その子孫は誅せられ、余党の子孫は死を減じて辺に徙され、その家属・奴婢はすべて被害の家に分賜された。耶律托卜嘉・蕭達囉克ら党人でとくに凶狡な者は賄賂によって免れた者もあり、逆に軍を覆し城を失った者は官を免じられるにとどまった。行軍将軍耶律聶哷ら三人は禁地で鹿を射た罪でみな棄市に処された。職官諸局の人で過ちのある者も鐫降・決断され、賞罰に章(法度)がなくなり、怨みの声が日々起こり、盗賊が相接ぎ叛乱が相継いだ。天祚は大いに恐れ、いよいよ厳酷な法を用いるようになり、投崖・砲擲・釘割・臠殺の刑が復興し、屍を五京に分けて晒す者もあり、甚だしくは心臓を取って祖廟に献じる者もあった。天祚が患を救う策がなく残忍に流れたのも、また祖宗がその端を開いたためである。遼の先代が刑を厳しく用いたのは、その子孫がみな君主たる器量を持ち、自ら択ぶ道を知っていたからだが、それは祖宗が後世に貽す道としてはなお不十分であった。もし一人でも昏暴な者が現れれば、これを口実として何をも憚らなくなる。しかし遼の末世と先代の用刑は同じでありながら興亡が異なったのはなぜか。それは、創業の君は法がまだ定まらない時に法を施すため民はまだこれを測りかねるが、亡国の主は法がすでに定まった後に法を施すため民はもはや頼るところがないからである。伝に「新国は軽典を用いる」というのは、単に事の宜しきに従うだけの話ではない。
- 天祚の末年、遊猟に度なく、いささか政務に倦む意があった。諸子のうち文妃の生んだ額嚕温がもっとも賢であったため、元妃の兄である蕭奉先はこれを深く忌んだ。折しも文妃の娘の兄は耶律達哈拉に嫁ぎ、妹は耶律伊都に嫁いでいたが、奉先はこの伊都らが晋王(額嚕温)を立てて天祚を太上皇に奉じようと謀っていると誣告した。ついに達哈拉とその妻を戮し、文妃には自尽を賜った。額嚕温はこの謀に与らなかったため罪を免れた。天祚が西へ逃れて奉聖州にあった時、また耶律薩巴らが額嚕温を強いて擁立しようとしていると誣告し、薩巴を誅してその党をすべて滅ぼした。額嚕温は人望があったため、その日のうちに死を賜った。当時、従行の百官・諸局の承応人・軍士はこれを聞いてみな涙を流した。興宗の時にわかに大獄を起こして仁徳皇后が幽所で害されて以来、遼の政はここから衰え始め、道宗が宣懿皇后を殺し昭懐太子を遷して太子はほどなく害され、天祚はその父の寃を知りながら自らも危うい目に遭い、ついに自らその子額嚕温をも殺すに至った。伝に「厚くすべき者に薄くする者は薄くしないところがない」という。遼二百余年、骨肉が相残なうこと、天祚の荒暴がもっとも甚だしく、ついに滅亡に至った。ああ。