遼史卷五十七 志第二十六 儀衞志三

符印

  • 約尼氏の代は印を回鶻から受けていたが、伊蘭汗に至って唐の武宗に印を請い、初めて「奉国契丹印」を賜った。太祖の神冊元年(916年)、後梁の幽州刺史が来帰した際に印綬を賜る詔があった。この時、太祖が位に就いてから十年であった。会同九年(946年)、太宗が晋を伐ち、末帝が伝国宝一・金印三・天子の符瑞を上表して遼に帰した。
  • 伝国宝:秦の始皇帝が藍玉を用いて作り、螭の紐、六面。正面の文は「受命於天既壽永昌」で魚鳥篆。子嬰以後、漢の高祖・王莽の簒漢の際、平皇后が璽を殿階に投げて螭の角がわずかに欠けた。献帝がこれを失い、孫堅が井戸の中から得て孫権に伝わり、魏に帰した。魏の文帝はその肩の際に「大魏受漢伝国之宝」と刻ませた。唐は「受命宝」と改名し、晋の滅亡とともに遼に帰した。三国以来、僭偽の諸国はしばしばこれを模造・私製し、歴代の府庫に蔵されたものは一つでなく真偽を弁じ難かった。聖宗の開泰十年、駅を馳せて石晋が上げた玉璽を中京より取り寄せた。興宗の重熙七年(1038年)、伝国宝を有する者が正統であるとする論を進士試験の題とした。天祚の保大二年(1122年)、伝国璽を桑乾河に遺失した。
  • 玉印:太宗が晋を破って北帰した際、汴宮で得たもの。随駕の庫に蔵する。穆宗の応暦二年(952年)、太宗の旧宝を用いるよう詔した。
  • 御前宝:金で鋳造し「御前之宝」の文。臣僚への宣命に印す。
  • 詔書宝:「書詔之宝」の文。書詔・批答に用いる。
  • 契丹宝:契丹の冊儀を受ける際、符宝郎がこれを捧げて御坐の東に置く。
  • 金印三:晋帝が上げたもので、その文は未詳。
  • 皇太后宝:制は未詳。天顕二年(927年)、応天皇后が称制した際、群臣が璽綬を上げた。承天皇太后の冊立の儀では符宝郎が宝を奉じて皇太后の坐の右に置く。
  • 皇后印:「皇后教印」の文。
  • 皇太子宝:制は未詳。重熙九年(1040年)の皇太子冊立の儀では、中書令が皇太子宝を授ける。

  • 吏部印:「吏部之印」の文、銀鋳で文官の制誥に印す。
  • 兵部印:「兵部之印」の文、銀鋳で軍職の制誥に印す。
  • 契丹枢密院、契丹諸行軍部署、漢人枢密院・中書省、漢人諸行宮都部署の印:すべて銀鋳で文字は六字を超えず、銀朱を色とする。
  • 南北王以下、内外百司の印:すべて銅鋳で黄丹を色とし、諸税務の印は赤石を色とする。
  • 双寛印:「双寛」は猛禽の総名で印の紐とし、疾速の意を取る。行軍の詔で将帥に用いる。道宗が耶律仁先に鷹紐印を賜ったのはこれである。

符契

  • 達呼哩氏の八部が兵を用いる際は合契して動くのみで、木を刻んで割符としていたが、太祖の受命後、金の魚符に改めた。
  • 金魚符:七枚、黄金鋳で長さ六寸、各々字号を持つ。魚は左右に判合され、事があれば左半を守将に、右半を使者が持つ。大小長短・字号が合致して初めて兵を発する。事が終われば内府に返す。
  • 銀牌:二百面、長さ一尺、国字を刻む。文は「宜速」または「勑走馬牌」。国に重大事があると皇帝が牌を親授し使者に手劄を与え、駅馬を若干与える。駅馬が尽きれば他の馬に代える。昼夜七百里を馳せ、次は五百里。至る所天子の親臨のように索取し更易でき、逆らう者はいない。使者が戻れば皇帝が親しくこれを受け取り、手ずから牌を封じ、印郎君が収蔵する。
  • 木契:正面を陽、背面を陰とし、閤門の喚仗に用いる。朝賀の礼では宣徽使が陽面の木契を殿から下げ殿門に至り、西上閤門使に契を授けて「授契行勘」と言う。勘契官は喏(承知の応答)して跪いて契を受け、手を挙げて勘契し、同じく俯いて興り鞠躬して「内外勘契同」と奏す。閤門使は「准勑勘契行勘」と言い、勘契官は陰面の木契を執って喏して立ち少し退き、声を張って「軍将門仗官」と唱えると仗官が斉しく喏する。勘契官は「内出喚仗木契一隻、准勑付左右金吾仗行勘」と言い、勘契官が「合不合」と問うと門仗官が「合」と答える。再度勘じて「同不同」、門仗官「同」と答える。これも再度行う。勘契官は近づいて鞠躬し「勘官左金吾引駕仗勾画都知某官某、対御勘同」と奏し、平身して少し退き、右手で契を挙げて「其契謹付閤門使」と言う。閤門使が引声で喏し、門仗官が声を下げて喏する。勘契官は跪いて契を閤門使に授け、閤門使は上殿して契を納め、宣徽使が契を受け取る。閤門使は殿を下りて勑を奉じ仗を喚ぶ。
  • 木箭:内側の箭を雄、外側の箭を雌とし、皇帝の行幸に用いる。還宮の際、勘箭官が雌箭を、東上閤門使が雄箭を執り、木契の儀と同様に行う。詳細は礼儀志に記す。