遼史卷四十一 志第十一 地理志五 西京道
西京大同府
西京大同府は陶唐では冀州の域、虞は并州に分かれ、夏はまた冀州に属し、周の職方では正北を并州といった。戦国は趙に属し武霊王が初めて雲中郡を置いた。秦は代王国に属し、後に平城県となった。魏は新興郡に属し、晋は雁門に属し、劉琨は猗盧を代王に封ずるよう表し都を平城とした。北魏の道武帝はここで都邑を建て、孝文帝は司州牧と改め代尹を置いたが、洛邑に遷都してのちは万年と改め、また恒州を置いた。北斉の文宣帝は州を廃して恒安鎮とした(今は東城と呼ぶ)が間もなく恒州に復した。北周も恒安鎮に復し朔州と改め、隋もそのまま鎮とした。唐の武徳4年に北恒州を置き、7年に廃す。貞観14年に雲中の定襄県をここに移し、永淳元年に黙啜が民の患いとなり民を朔州に移す。開元18年に雲中州を置き、天宝元年に雲中郡と改め、乾元元年に雲州という。乾符3年、大同軍節度使の李国昌の子克用が雲中守捉使となり防禦使を殺して州を拠って上聞し、僖宗は克用を赦して国昌を大同軍防禦使としたが受命せず、広明元年に李琢が国昌を攻め、国昌は兵敗れ克用とともに北地に奔った。黄巣が京師に入ると代北軍の発を詔し間もなく国昌を赦して賊討伐に使い、克用は3万5千騎を率いて南下し京師回復の功第一となり、国昌は隴西郡王に封ぜられた。国昌が卒すると克用は雲南を取り、その後も所向うところ失利したため卑詞厚礼をもって太祖と雲州の東城で会し大挙して梁を攻めようと謀ったが果たさず、克用の子存朂(存勗)が梁を滅ぼしこれが唐荘宗である。同光3年(925年)に再び雲州を大同軍節度使とし、晋の高祖は唐に代わる際、契丹に援立の功があったとして山前・代北の地を割いて大同を賂とし来属させ西京を建てた。 - 敵楼・棚櫓を具え、広袤20里、門は東を迎春、南を朝陽、西を定西、北を拱極という。北魏の宮垣が城の北面を占め双闕は今もある。遼は既に建都しここを重地とし、親王でなければ主とできなかった。清寧8年(1062年)に華厳寺を建て歴代皇帝の石像・銅像を安置し、また天王寺・留守司衙があり、南は西省、北門の東は大同府、北門の西は大同駅という。初め大同軍節度、重熙13年(1044年)に西京府(大同)に昇格。統州2県7。
- 大同県:もと大同川地。重熙17年(1048年)、西夏が辺境を犯すに際し雲中県を析いて置く。戸1万。
- 雲中県:趙が置き沿革は京府と同じ。戸1万。
- 天成県:もと極塞の地。北魏の道武帝が広牧県を置き、唐の武徳5年に定襄県を置く。遼が雲中を析いて置く。京の北180里。戸5000。
- 長青県:もと白登台の地(冒頓単于が精騎30余万を縦にして漢の高帝を白登に7日囲んだのがここという)。遼が初めて県を置く。青陂があり(梁の元帝の横吹曲に「朝跋青陂暮上白登」とある)京の東北110里。戸4000。
- 奉義県:もと漢の陶林県地。後唐の武皇と太祖がここで会した。遼が雲中を析いて置く。戸3000。
- 懐仁県:もと漢の沙南県。北魏の葛栄の乱で県は廃されたが隋の開皇2年に雲内をここに移し、大業2年に大利県を置き雲州に属し定襄郡に属を改める。隋末に突厥に陥り、李克用が赫連鐸を破りここに駐兵した。遼が懐仁と改める。京の南60里。戸3000。
- 懐安県:もと漢の夷輿県地。魏から隋に至るまで突厥に拠られ、唐は頡利県を克つも廃されて懐荒鎮となる。高勲が燕を鎮め奏して帰化州の文徳県を分けて置く。初め奉聖州に隷し後に来属。州の西北280里。戸3000。
西京道管内の諸州
- 弘州博寧軍下刺史:東魏の静帝が北霊丘県を置く。唐初は突厥に陥り、開元中に横野軍安辺県を置くが天宝の乱で廃され、後に襄陰村となる。統和中、寰州が辺に近く宋将の潘美に破られ廃されたため、ここに弘州を置く。初め軍を永寧と号す。桑乾河・白道泉・白登山(火焼山とも)があり火井もある。統県2。
- 永寧県:戸1万。
- 順聖県:もと魏の安塞軍、五代の兵で廃されたが高勲が幽州を鎮め奏して景宗が永興県を分けて置く。初め奉聖州に隷す。州の西北280里。戸3000。
- 徳州下刺史:唐の会昌中に西徳店をもって徳州を置く。開泰8年、漢戸をもって復置。歩落泉・金河山・野狐嶺・白道坂がある。統県1(宣徳県。もと漢の桐過県地、雲中郡に属したが後に定襄郡に属す。漢末廃され、北斉が紫阿鎮を置き、唐の会昌中に県を置く。戸3000)。
- 豊州天徳軍節度使:秦は上郡の北境、漢は五原郡に属す地で磧鹵が多く田疇は少ない。晋の永嘉の乱以来赫連勃勃に属し、後周は永豊鎮を置き、隋の開皇中に永豊県に昇格し豊州と改称。大業7年に五原郡となり、義寧元年に太守の張遜が奏して帰順郡と改め、唐の武徳元年に豊州総管府となるが6年に省かれ民は白馬県に遷され州は廃された。貞観4年、霊州の境を分けて豊州都督府を置き蕃戸を管轄、天宝初に九原郡、乾元元年に豊州に復すが後に回鶻に入り、会昌中にこれを克ち、後唐が天徳軍と改め、太祖の神冊5年(920年)に攻め下し応天軍と改称し、また州に復した。大塩濼・九十九泉・没越濼・古磧口・青塚(王昭君の墓)があり兵事は西南面招討司に属す。統県2。
- 富民県:もと漢の臨戎県、遼が今の名に改める。戸1300。
- 振武県:もと漢の定襄郡盛楽県。背は陰山、前は黄河を帯び、北魏はかつて盛楽に都した。唐の武徳4年に突厥を克ち雲中都督府を建て、麟徳3年に単于大都督府と改め、聖暦元年にまた安北都督と改め、開元7年に東受降城に隷し8年に振武軍節度使を置き、会昌5年に安北都護府となる。後唐荘宗は兄の嗣本を振武節度使とした。太祖の神冊元年(916年)に吐渾を伐って帰る際にこれを攻め、その民を尽く俘えて東に遷し郷兵300人のみを防戍に残し、後に県に改めた。
- 雲内州開遠軍下節度:もと中受降城地。遼初に代北雲朔招討司を置き、雲内州に改める。清寧初に昇格。威塞軍・古哈屯城・大同州・天安軍・永済柵・安楽戍・払雲堆があり兵事は西南面招討司に属す。県2(柔服県・寧人県)。
- 天徳軍:もと中受降城。唐の開元中に横塞軍を廃し天安軍を大同川に置く。乾元中に天徳軍と改め永済柵に移す。今の治はこれである。太祖が党項を平定し天徳を破り吏民を尽く東に掠め、後に招討司を置き漸く井邑をなした。国族をもって天徳軍節度使とした。黄河・黒山峪・廬城・威塞軍・秦長城・唐長城があり牟那山・鉗耳觜城がその北にある。
- 寧辺州鎮西軍下刺史:もと唐の隆鎮。遼が置く。兵事は西南面招討司に属す。
- 奉聖州武定軍上節度:もと唐の新州。後唐が団練使を置き山後八軍を総べ、荘宗が弟の存矩をこれに任じたが軍が乱れ存矩は祁州で殺され、大将の盧文進が太祖のもとへ亡命した。太祖は新州を克ち、荘宗は李嗣源を遣わし復び取った。同光2年(924年)に威塞軍に昇格。晋の高祖が割いて献じ、太宗が昇格させた。両河会・温泉・龍門山・涿鹿山があり、東南は南京まで300里、西北は西京まで440里、兵事は西京都部署司に属す。統州3県4。
- 永興県:もと漢の涿鹿県地(黄帝が蚩尤とここで戦った)。戸8000。
- 礬山県:もと漢の軍都県。山に白緑礬を産しこれにより名づけた。礬山・桑乾河が州の南60里にある。戸3000。
- 龍門県:龍門山があり石壁が対峙し高さ数百尺、望むとまるで門のよう。徼外の諸河及び沙漠の潦水は皆ここに趣いて海に入る。雨が降ると俄頃に水は千仞を踰え、晴れれば清浅で渉れる。実に塞北を控扼する要衝である。州の東北280里。戸4000。
- 望雲県:もと望雲川の地。景宗がここに潜邸を建て、井肆を成した。穆宗が崩じ景宗が紹国に入るまで御荘と号し、後に望雲県を置いた。章愍宮に直隷し附庸となった。州の東北260里。戸1000。
- 帰化州雄武軍上刺史:もと漢の下洛県、北魏が文徳県と改める。唐が武州に昇格し、僖宗が毅州と改め、後唐の太祖が武州に復し、明宗がまた毅州とし、潞王がまた武州とした。晋の高祖が遼に割いて献じ今の名に改める。桑乾河・会河川・愛陽川・炭山(陘頭とも)があり、涼殿(承天皇后が涼をとった場所)、山の東北30里に新涼殿(景宗が涼をとった場所)がある。松棚数陘のみ。州の西北は西京まで450里。統県1(文徳県。もと漢の女祁県地、北魏が置く。戸1万)。
- 汗州清平軍下刺史:もと漢の潘県、北魏が置き北斉が北燕郡と改め懐戎県と改称、隋は郡を廃し涿郡に属す。唐の武徳中に北燕州を復置し県は旧のまま、貞観8年に嬀州と改める。五代の時、奚王去諸が数千帳をもって嬀州を欲し西奚として別に汗州と号し、太祖がこれに因る。嬀泉が城中にあり(舜が二女を嫁がせた地と伝わる)、温泉・版泉・磨笄山・鶏鳴山・喬山・歴山がある。統県1(懐来県。もと懐戎県、太祖が改める。戸3000)。
- 儒州縉陽軍中刺史:唐が置き、後唐の同光2年に新州に隷し、太宗が奉聖州に改めなお属す。南渓河・沽河・宋王峪・桃峪口がある。統県1(縉山県。もと漢の広寧県地。唐の天宝中に嬀州の県を割いて置く。戸5000)。
- 蔚州忠順軍上節度:周の職方で并州の川を漚夷といい飛狐県の州境にある。趙の襄子が代を滅ぼし、武霊王が代郡を置いた。項羽が趙歇を代王に徙し、歇は還って趙に立ち陳余は代王となる。漢の韓信が余を斬りまた代郡を置く。文帝が初めて代に封じたのも皆この地である。北周の宣帝が初めて蔚州を置き、隋の開皇中に廃し、唐の武徳4年に復置、至徳2年(757年)に興唐県と改め、乾元元年に旧に戻す。大中後、朱邪執宜が刺史となり功があり姓名を賜り李国昌の子克用が留後を乞うたが僖宗は許さず、広明初に国昌を攻破して代北の備えがなくなり、太祖が来攻してこれを克ち居民を俘掠して去った。石晋が地を献じ忠順軍に昇格、後に武安軍と改称。統和4年(986年)に宋に入るが間もなく復し、刺史に降格して奉聖州に隷したが後に観察に昇格しまた忠順軍節度に復す。兵事は西京都部署司に属す。統県5。
- 霊仙県:唐が興唐県を置き梁が隆化県と改め、後唐の同光初に復置、晋が今の名に改める。戸2万。
- 定安県:もと漢の東安陽県地、久しく廃されたが後唐の太祖が劉仁恭を伐ち蔚州に次いだ際、晨霧が晦冥で不利と占ったが深入りしたところ雷電が大作し燕軍が解け去ったのがここという。遼が定安県を置く。州の西北60里。戸1万。
- 飛狐県:後周の大象2年に五竜城に広昌県を置いたのがここ。隋の仁寿元年に飛狐と改名(狐が紫荊嶺で五粒松の実を食べて飛仙になったという伝説による)。州の西北140里。戸5000。
- 霊丘県:漢が置き後漢で省かれ、東魏が復置し霊丘郡に属す。隋の開皇中に郡を罷して来属、大業初に代州に隷を改め、唐の武徳6年に旧に復す。州の東北180里。戸3000。
- 広陵県:もと漢の延陵県、隋唐は鎮州とし、後唐の同光初に興唐県を分けて置く。石晋が遼に割いた。州の東南40里。戸3000。
- 応州彰国軍上節度:唐の武徳中に金城県を置き後に応州と改める。後唐の明宗は州の人で天成元年に彰国軍節度に昇格し興唐軍・寰州がこれに隷す。遼はこれに因る。北に龍首山、南に鴈門があり兵事は西京都部署司に属す。統県3。
- 金城県:もと漢の陰館県地、漢末に廃され陰館城となる。大業末に突厥に陥り唐が金城県を置き遼はこれに因る。戸8000。
- 渾源県:唐が置く。渾源川があり州の東南150里。戸5000。
- 河陰県:もと漢の陰館県地。初め朔州に隷し清寧中に来属。戸3000。
- 朔州順義軍下節度:もと漢の馬邑県地。北魏の孝文帝が初めて朔州を置く(今の州の北380里の定襄故城)。葛栄の乱で廃され、北斉の天保6年に復置(今の州の南47里の新城)、8年に馬邑に徙り今の城となる。武成帝が北道行台を置き、周の武帝が朔州総管府を置いた。隋の大業3年に馬邑郡と改め、唐の武徳4年に朔州に復す。遼が順義軍節度に昇格。兵事は西京都部署司に属す。統州1県3。
- 鄯陽県:もと漢の定襄県地。建安中に新興郡を置き、北魏は桑乾郡を置き、北斉が招遠県を置き郡は旧のまま。隋の開皇3年に郡を罷して朔州に隷し、大業元年に初めて鄯陽県と名づけ遼はこれに因る。戸4000。
- 寧遠県:北斉の天保6年に朔州の西に招遠県を置き、唐の乾元元年に今の名に改め遼はこれに因る。寧遠鎮があり東は朔州まで80里。戸2000。
- 馬邑県:漢が置き雁門郡に属す。唐の開元5年、鄯陽県の東30里を析いて大同軍を置き倚郭に馬邑県を置く。南は朔州まで40里。戸3000。
- 武州宣威軍下刺史:趙の恵王が武川塞を置き、魏が神武県を置いた。唐末に武州を置き、後唐が毅州と改め重熙9年(1040年)に武州に復し宣威軍と号す。統県1(神武県。魏が置き晋が新城と改める。後唐の太祖は神武川の新城で生まれたのがここという。初め朔州に隷し後に置州して寧遠を併せ一県として来属。戸5000)。
- 東勝州武興軍下刺史:隋の開皇7年に勝州を置き、大業5年に榆林郡と改める。唐の貞観5年、南河地に決勝州を置いたためこれを東勝州と呼ぶ。天宝7年にまた榆林郡となり、乾元元年に勝州に復す。太祖の神冊元年、振武軍を破ると勝州の民はみな河東に趨り州は廃されたが、晋が代北の地を割いて献じ復置。兵事は西南面招討司に属す。統県2(榆林県・河濱県)。
- 金粛州:重熙12年(1043年)、西夏を伐つに際し置く。燕民300戸を割いて防秋軍1000を実らせ西南面招討司に属す。
- 河清軍:西夏が遼に帰し直路を開いて上京に趣くにあたり重熙12年に城を建て河清軍と号し、民500戸・防秋兵1000人を徙して実らせ西南面招討司に属す。