遼史卷四十 志第十 地理志四 南京道

南京析津府

南京析津府はもと古の冀州の地。高陽氏はこれを幽陵と呼び、陶唐は幽都といい、有虞は分かって幽州とした。商は幽を冀に併せ、周は分けて并とし職方では東北を幽州とし、山鎮は医巫閭、沢藪は豯養、川は河・泲、浸は菑とし、利は魚塩、畜は馬牛豕、穀は黍稷稲であった。武王は太保奭を燕に封じた。秦はその地を漁陽・上谷・右北平・遼西・遼東の五郡とし、漢は燕国とし歴代に臧荼・盧綰・劉建・劉沢・劉旦を封じ、常に涿郡・広陽国を置いた。後漢は広平国・広陽郡とし、あるいは上谷に合し、また幽州を復置。後周は燕及び范陽郡を置き、隋は幽州総管とし、唐は大都督府を置き范陽節度使と改め、安禄山・史思明・李懐仙・朱滔・劉怦・劉済が相次いで割拠、劉総が唐に帰し、張仲武・張允仲に至って正しく民を得たが、劉仁恭父子が僣り争って五代に入った。唐から晋に至り、高祖は遼に援立の労があったとして幽州等16州を割いて献じ、太宗は南京に昇格させ、また燕京と称した。 - 城は方三十六里、高さ三丈、幅広さ一丈五尺、敵楼戦櫓を具え八門(東:安東・迎春、南:開陽・丹鳳、西:顕西・清晋、北:通天・拱辰)。大内は西南隅にあり皇城内に景宗・聖宗の御容殿二があり、東は宣和、南は大内という。内門は宣教(改元和)、外三門は南端・左掖・右掖(左掖は万春、右掖は千秋と改称)で楼閣があり、毬場がその南にあり東に永平館。皇城の西門は顕西で設けても開かず、北は子北という。西城の巔に涼殿、東北隅に燕角楼があり、坊市・廨舍・寺観は書き尽くせないほど多い。ほかに居庸・松亭・榆林の関、古北の口、桑乾河・高梁河・石子河・大安山、燕山中に瑶嶼がある。 - 府は幽都と号し軍は盧龍と号したが、開泰元年(1012年)に軍額を落とした。統州6県11。

  • 析津県:もと晋の薊県、改めて薊北県。開泰元年に今の名に改める。燕の分野が旅寅で「析木之津」にあたるため。戸2万。
  • 宛平県:もと晋の幽都県。開泰元年に今の名に改める。戸2万2000。
  • 昌平県:もと漢の軍都県。後漢は広陽郡に属し、晋は燕国に属す。北魏が東燕郡及び昌平県を置いたが郡は廃され県は幽州に隷す。京の北90里。戸7000。
  • 良郷県:燕の中都県、漢が良郷県と改め、もと涿郡に属した。北斉の天保7年に薊県に併入され、武平6年に復置。唐の聖暦元年に固節鎮と改め、神龍元年に良郷県に復した。劉守光がここに治を徙した。京の南60里。戸7000。
  • 潞県:もと漢の旧県、漁陽郡に属す。唐の武徳2年に元州を置き、貞観元年に州は廃され県に復した。潞水がある。京の東60里。戸3000。
  • 安次県:もと漢の旧県、漁陽郡に属す。唐の武徳4年に東南50里の石梁城に徙し、貞観8年にまた今の県の西5里の常道城に徙し、開元23年にまた耿就橋の行市南に徙した。京の南120里。戸1万2000。
  • 永清県:もと漢の益昌県、隋は通沢県、唐は武隆県を置き会昌と改め、天宝初に永清県となる。京の南150里。戸5000。
  • 武清県:前漢の雍奴県、漁陽郡に属す。『水経』に「雍奴とは藪沢の名、四面に水があり雍を不流、奴という」とある。唐の天宝初に武清と改める。京の東南150里。戸1万。
  • 香河県:もと武清の孫村。遼が新倉に榷塩院を置いてから居民が集まり、武清・香河・潞の三県を分けて戸を置いた。京の東南120里。戸7000。
  • 玉河県:もと泉山の地。劉仁恭が大安山に宮観を創り煉丹羽化の術を司らせ、方士の王若訥にこれを給するため薊県を割いて置いた。京の西40里。戸1000。
  • 漷陰県:もと漢の泉山の霍村鎮。遼は毎季春に延芳淀で弋猟し、居民が邑を成し漷陰鎮から改めて県となった。県の東南90里。延芳淀は方数百里、春に鵝鶩が集まり夏秋は菱芡が多い。国主の春猟では衛士がみな墨緑を衣て連鎚を持ち、鷹の食とする刺鵝錐を水次に五・七歩の間隔で列べ、上風で鼓を撃ち鵝を驚かせて水面から稍々離れさせると国主自ら海東青鶻を放って擒えさせ、鵝が墜ちて鶻の力が及ばない時は列にいる者が佩びた錐で鵞を刺し急いでその脳を取って鶻に飼う。頭の鵝を得た者は例により銀絹を賞される。国主・皇族・郡臣にはそれぞれ分地があった。戸5000。

宋の王曽が上奏した契丹の道里(南京への道)

宋の王曽は「上契丹事」において、雄州白溝駅から河を渡り40里で新城県(古の督亢亭の地)、また70里で涿州、北に范水・劉李河を渡り60里で良郷県、盧溝河を渡り60里で幽州(燕京と号す)に至ると記す。子城は羅郭の西南に就いて造られ、正南は啓夏門といい内に元和殿があり、東門は宣和という。城中の坊閈にはみな楼があり、閔忠寺(唐の太宗が征遼の陣亡将士のために造った)、開泰寺(魏王耶律漢寧が造った)があり、いずれも朝使を邀えて遊観させる。南門外に裕悦王廨があり宴集の所となる。門外の永平館(旧名は碣石館。請和後に改称)の南はすぐ桑乾河であるという。

南京道管内の諸州

  • 順州帰化軍中刺史:秦の上谷、漢の范陽、北斉の帰徳郡境。隋の開皇中、粟末靺鞨が高麗と戦って勝たず、厥稽部長の突地稽が八部の勝兵数千人を率いて扶余城から西北に落ち内附したため順州を置いて処した。唐の武徳初に燕州と改め、会昌中に帰順州、唐末に順州に戻す。温楡河・白遂河・曹王山(曹操がかつて軍を駐した地)・黍谷山(鄒衍が律を吹いた地)があり、南に斉長城、城の東北に華林・天柱の二荘があり、遼が涼殿を建て春に花を賞し夏に涼をとった。初め軍を帰寧と号し後に改名。統県1(懐柔県。唐の貞観6年に置き治は五柳城、順義県と改称、開元4年に松漠府弾汗州を置き、天宝元年に帰化県と改め、乾元元年に今の名に復す。戸5000)。
  • 檀州武威軍下刺史:もと燕の漁陽郡地、漢は白檀県(魏書に「曹公が歴白檀で烏丸を柳城に破る」とあり、続漢書に「白檀は右北平にあり」とある)。北魏は密雲郡を創り安州を兼置し、後周は元州と改め、隋の開皇18年に燕楽・密雲二県を割いて檀州を置く。唐の天宝元年に密雲郡と改め乾元元年に檀州に復す。遼は今の軍号を加える。桑渓・鮑丘山・桃花山・螺山があり統県2。
  • 密雲県:もと漢の白檀県。後漢では居斤奚とし、北魏が密雲郡を置き白檀・要陽・密雲の三県を管轄したが北斉が郡と二県を廃し来属。戸5000。
  • 行唐県:もと定州の行唐県。太祖が定州を掠め行唐を破りその民を尽く北に駆り檀州まで至らせ曠土を選んで居らせ十寨を置き、なお行唐県と名づけた。彰愍宮に隷す。戸3000。
  • 涿州永泰軍上刺史:漢の高祖6年、燕を分けて涿郡を置く。魏の文帝が范陽郡と改め、晋は范陽国とし、北魏は復び郡とした。隋の開皇2年に郡を罷し幽州に属し、大業3年に幽州を涿郡とした。唐の武徳元年に郡は廃され涿県となり、7年に范陽県と改め、大暦4年に涿州を置く。石晋が太祖に帰した。大房山・六聘山・涿水・楼桑河・横溝河・礼遜河・祁溝河があり統県4。
  • 范陽県:もと漢の涿県。唐の武徳中に范陽県と改める。涿水・范水がある。戸1万。
  • 固安県:もと漢の方城県。もと広陽国に属したが隋の開皇9年に易州淶水県から移して幽州に属し、漢の故安県の名を取った。唐の武徳4年に北義州に属し治を章信堡に徙し、貞観2年に義州が廃されると今の治に移り復び幽州に属す。州の東南90里。戸1万。
  • 新城県:もと漢の新昌県。唐の大暦4年に固安県を析いて置いたが後に省かれ、後唐の天成4年に范陽県を析いて復置。州の南60里。戸1万。
  • 帰義県:もと漢の易県地。斉は鄚県に併入され、唐の武徳5年に北義州を置いたが州が廃されて県に復し来属。民居は巨馬河の南にあり新城に僑治した。戸4000。
  • 易州高陽軍上刺史:漢では易・故安二県の地。隋が易州を置き隋末に上谷郡とした。唐の武徳4年に易州に復し天宝元年に上谷郡、乾元元年に易州と改め、五代は定州節度使に隷した。会同9年(946年)、孫方簡がその地をもって来附し、応暦9年(959年)に周の世宗に取られて宋に属したが、統和7年(989年)に攻め克ち高陽軍に昇格した。易水・淶水・狼山・太寧山・白馬山があり統県3。
  • 易県:もと漢の県、故城は今の県の東南60里。斉の天保7年に省かれ、隋の開皇16年に故安城の西北隅に県を置いたのが今の県治である。戸2万5000。
  • 淶水県:もと漢の道県、今の県の北1里が故道城。北魏が故城の南(今の県の置所)に移した。周の太象年間に淶水県と改める。州の東40里、淶水がある。戸2万7000。
  • 容城県:もと漢の県、もと涿郡に属し故城は雄州の西南にある。唐の武徳5年に北義州に属し、貞観元年に還り来属、聖暦3年に全忠県と改め、天宝元年に容城県に復す。州の東80里。民は皆巨馬河の南に居り涿州の新城に僑治した。戸5000。
  • 薊州尚武軍上刺史:秦の漁陽・右北平二郡の地。隋の開皇中に玄州総管府に治を徙し、煬帝が漁陽郡と改める。唐の武徳元年に幽州に廃入され、開元18年に薊州を分立。統県3。
  • 漁陽県:もと漢の県、漁陽郡に属す。晋で省かれ復置、北魏で省かれたが唐で幽州に属し、開元18年に薊州を置く。鮑丘水がある。戸4000。
  • 三河県:もと漢の臨胊県地。唐の開元4年に潞州を分けて置く。戸3000。
  • 玉田県:もと春秋の無終子国、漢は無終県を置き右北平郡に属す。北魏は漁陽郡に属し治は省かれたが唐の武徳2年に復置、貞観初に省かれ乾封中に復置。万歳通天元年に玉田と改め幽州に属し、開元4年にまた幽州に属し8年に営州に属し11年にまた営州に属し、18年に来属した。捜神記によれば雍伯は洛陽の人で孝行あり、父母が没して無終山に葬った(山高80里、頂に水無く雍伯が飲料を置いたところ、飲む者があって石一斗を与えられ種えたところ玉が生じたため玉田と名づけたという)。戸3000。
  • 景州清安軍下刺史:もと薊州の遵化県。重熙中に置く。戸3000。統県1(遵化県。もと唐の平州の買馬監を県としたもの、来属)。
  • 平州遼興軍上節度:商は孤竹国、春秋は山戎国、秦は遼西・右北平二郡の地。漢はこれを継承し、漢末は公孫度が拠り、子の康・孫の淵に伝わり魏に入った。隋の開皇中に平州と改め、大業初に復び郡とする。唐の武徳初に州と改め、天宝元年に北平郡に復す。後唐がまた平州とした。太祖の天賛2年(923年)にこれを取り、定州の俘戸を錯置した。統州2県3。
  • 盧龍県:もと肥如国、春秋に晋が肥を滅ぼし肥子が燕に奔りここに封を受けた。漢晋は遼西郡に属し、北魏は郡治となり平州を兼立、北斉は北平郡に属す。隋の開皇中に肥如を新昌に省き、18年に新昌を盧龍と改める。唐は平州とし後もこれに因る。戸7000。
  • 安喜県:もと漢の令支県地。久しく廃されたが、太祖が定州安喜県の俘戸をもって置く。平州の東北60里。戸5000。
  • 望都県:もと漢の海陽県。久しく廃されたが、太祖が定州望都県の俘戸をもって置く。海陽山がある。州の南30里。戸3000。
  • 灤州永安軍中刺史:もと古の黄洛城、灤河が環繞し盧龍山の南にある。斉の桓公が山戎を伐ちここで山神の兪児を見た地。秦は右北平、漢は石城県(後に海陽県と改名)、漢末は公孫度が有した。晋以後は遼西に属し、石晋が地を平州の境に割いた。太祖が俘戸をもって灤州を置く。山を負い河を帯び朔漠の形勝の地で扶蘇泉(甘美な泉。秦の太子扶蘇が北の長城を築いた際に常に駐した地)があり、臨楡山は峰巒が崛起し高さ千余仞で下は楡河に臨む。統県2。
    • 義豊県:もと黄洛故城。黄洛水は北の盧龍山から出て南に流れ濡水に入る。漢は遼西郡に属したが久しく廃され、唐末に契丹に入り世宗が県を置く。戸4000。
    • 馬城県:もと盧龍県地。唐の開元28年に水運を通じるため析いて県を置いた。東北に千金冶、東に茂郷鎮があり、遼は灤州に隷させた。州の西南40里。戸3000。
    • 石城県:漢に置き右北平郡に属したが久しく廃され、唐の貞観中に臨楡県を置き、万歳通天元年に石城県と改める。灤州の南30里(唐の儀鳳の石刻がここにある)。今の県はその南50里にあり塩官に就くため遷徙して置いた。戸3000。
  • 営州隣海軍下刺史:もと商の孤竹国、秦は遼西郡に属し、漢は昌黎郡とする。前燕の慕容皝がここに都を徙し、北魏が営州を立て昌黎・建徳・遼東・楽浪・翼陽・営丘の六郡を管轄した。後周は高宝寧に拠られ、隋は開皇に州を置き大業に遼西郡と改める。唐の武徳元年に営州と改め、万歳通天元年に初めて契丹に入り、聖暦2年に漁陽に僑治、開元5年に柳城に還治、天宝元年に柳城郡と改め、後唐がまた営州とした。太祖が定州の俘戸を居らせた。統県1(広寧県。漢の柳城県、遼西郡に属す。東北は奚・契丹に接境。万歳通天元年に契丹に入り李万栄が神龍元年に幽州境に移したが、開元4年に旧地に復す。遼が今の名に改める。戸3000)。