出自と生い立ち
- 景宗孝成康靖皇帝は諱を賢、字を賢寧、小字を明扆といい、世宗皇帝の第二子。母は懷節皇后蕭氏。察克の乱の時、帝はわずか四歳で穆宗の即位後、永興宮で養われた。成長すると穆宗の酗酒・政の怠りを憂い、ある日韓匡嗣と時事を語ったところ耶律賢適に止められた。應暦十九年二月戊辰、穆宗に「吾が児已に成人せり、政を付すべし」と言われ、翌己巳、穆宗が弑された。帝は飛龍使尼哩・侍中蕭思温・南院樞密使髙勲とともに甲騎千人を率いて行在に馳せ参じて哭し、群臣に勧められて柩前で皇帝位に即いた。
元年(969年)
- 百官より尊号「天贊皇帝」を受け大赦、保寧と改元した。殿前都㸃檢伊勒哈・右皮室詳衮蕭烏埒濟を宿衛怠慢の罪で斬った。三月、上京に入り蕭思温を北院樞密使とした。太平王雅斯哈が沙陀に逃亡したが後に入朝した。四月、雅斯哈を齊王、喜隠を宋王などに進封・改封した。五月、貴妃蕭氏を皇后に立て、帝の生日を天清節とする詔を許した。十一月、柴冊礼を行い木葉山を祠り、蕭思温を魏王、烏哲に裕悦を加えた。
二年(970年)
- 四月、東京に幸し讓國皇帝・世宗の廟を祭った。五月、西幸の途上、盤道嶺で盗賊が北院樞密使蕭思温を殺害した。七月、右皮室詳衮賢適を北院樞密使とし、九月、蕭哈濟・哈里が蕭思温殺害の実行者と判明し誅殺、その弟紳圖は黄龍府に流された。
三年(971年)
- 二月、東幸し、飛龍使尼哩を契丹行宮都部署とした。四月、世宗妃卓琳・普格が厭魅の罪で賜死された。六月、蕭紳圖が誅された。八月、皇兄吼の墓を祭りその子を皇太子・莊聖と追冊した。十一月、臚朐河裕悦雅克尼爾の帰附があった。十二月、皇子隆緒(後の聖宗)が生まれた。
四年(972年)
- 閏月、齊王雅斯哈が薨じ皇太叔と追冊された。四月、蕭思温を楚國王に追封した。
五年(973年)
- 正月、特哩衮休格が党項を伐って破った。三月、皇后の祖瑚穆哩を韓王に追封した。五月、裕悦烏哲が薨じた。女直が辺境を侵し都監達里塔・伊喇鄂囉を殺した。十一月、應暦の逆党である近侍霄格・華格・錫衮らを捕らえ誅した。
六年(974年)
- 三月、宋が請和の使者を送り、涿州刺史耶律昌珠を侍中に加えて宋と議和させた。四月、宋王喜隠が謀反の罪で廃された。七月、閤門使卓庫が喜隠の謀反を告発した男哈里の功に隴州防禦使を遥授した。
七年(975年)
- 七月、黄龍府の衛將雅木丕勒が都監張琚を殺して叛き、討伐の末九月に敗れて逃走した。
八年(976年)
- 二月、史館学士に皇后の言も「朕」「予」と称すことを定式とする詔を下した。三月、五使を四方に遣わし鰥寡孤独・貧乏失職の者を賑わせた。七月、寧王扎穆の妻安扎の謀反が発覚し伏誅、扎穆・髙勲は除名された。九月、東京統軍使察喇・詳衮古が女直による五寨襲撃を報じた。十一月、宋主匡𦙍が殂じ弟炅(太宗)が自立し、遼はこれに使者を送った。十二月、南京に禮部貢院を復す詔を下した。