遼史卷七 本紀第七 穆宗二

十四年(964年)

  • 正月、奉安神纛の礼を行い、漢は宋将来襲を馳せ告げた。二月、西南面招討使塔拉に漢援護のための進兵を命じた。この年も上(穆宗)は狩猟人・虞人らを些細な過失で残酷に処刑することが続いた(摩多哈喇ら七人を野に支解する、鹿人を炮烙・鐵梳の刑に処すなど)。夏、黄龍府に甘露が降ったと報告された。九月、黄室韋が叛いた。十二月、烏爾古が叛いて民財を掠め、詳衮僧隱がこれと戦って敗れ、僧隱・伊實らが戦死した。

十五年(965年)

  • 正月、樞密使伊勒希を行軍都統、詳衮齊蘇を行軍都監として烏爾古討伐を命じた。二月、日食があった。三月、大黄室韋の酋長伊聶濟が叛き、五坊の四十戸も烏爾古に投じて叛いた。四月、小黄室韋も叛き、伊勒希・齊蘇はこれに敗れて更迭された。六月、徳哷が来降した。七月から十月にかけ烏爾古との戦闘が繰り返され、勝敗が交錯した。この間も近侍を些細な理由で殺す事件が続いた。

十六年(966年)

  • 正月、微行して市中の酒家に銀絹を賜う一方、近侍らを次々に殺した。五月、旱に際し池に舟を浮かべ、また水中に立って雨を祈った。七月、行幸の地には標識を立てて民の違反を死罪とする令を下した。九月、重九の宴を昼夜連ねて行った。十二月、酒人の家に幸し、耶律伊勒哈の邸で連日宴飲、左右への濫授官が甚だしかった。

十七年(967年)

  • 正月、林牙蕭斡・郎君耶律賢適の烏爾古討伐凱旋を賜宴で労った。五月、北府宰相蕭哈里が薨じ、輟朝して重五の宴を罷めた。この年も鹿人・雉人・酒人・豕人らへの残虐な処刑が続いた。九月に司天臺が月食の予兆を奏したが虧けなかったため祥として歓飲した。

十八年(968年)

  • 正月、市中で観灯し銀百両で酒を買い群臣にも縦飲を命じた。三月、大酒器「鹿甒」を造って天を祭った。近侍・監囚らへの残虐な刑が続いた。五月、獲鵝を祝い政事令蕭巴雅爾・南京留守高勲らと連日酣飲した。七月、漢主承鈞が殂じ子繼元が立ち、弔祭の使者を送った。十月、詳衮巴蘭・伊喇罕都ら四人を殺した。宋が河東を襲う気配を知り西南面都統南院大王特烈に備えを命じた。十一月、宋が太原を包囲し特烈を兵馬總管として諸道兵で救援させた。

十九年(969年)

  • 正月から立春を過ぎても月末まで酒に耽り朝を聴かなかった。三月、漢の劉繼元の嗣立に伴い韓知範を遣わして皇帝に冊立した。この月も前導穆濟を殺してその屍を剉るなど猟奇的な処刑が続いた。己巳、懐州での狩猟に酔ったまま行宮へ馳せ戻ったその夜、近侍霄格・盥人華格・庖人錫衮ら六人が反して帝は弑された。年三十九。廟号を穆宗とし懐陵に附葬、重熙二十一年(1052年)に孝安敬正皇帝と諡された。

史論

  • 穆宗は在位十八年、女巫の妖妄を見破って誅し臣下の濫刑を諌めるなど不明ではなかったが、酒色と狩猟に耽って厭くことなく、鵝を得ては歓び炮烙・鐵梳の刑を科すなど賞罰の道理を欠き、朝政を視ずして殺戮を止めなかった。変が身近から起きたのも当然である、と評される。