出自と生い立ち
- 太祖大聖大明神烈天皇帝、姓は耶律氏、諱は億、字は安巴堅、小字は多爾済。契丹迭剌部の徳哷勒(迭剌)人、徳祖皇帝の長子。母は宣簡皇后蕭氏。唐の咸通13年(872年)生まれ。
- 誕生前、母は太陽が懐に落ちる夢を見て身ごもった。生まれたとき室内に神光と異香が満ち、体は三歳児のようで匍匐でき、祖母簡献皇后がこれを異として自らの子として育て、別の幕に匿って顔を人に見せず、三ヶ月で歩き、一歳で言葉を話し、未来の事を予知し、常に神人が左右で守護していると語った。幼少より言葉は世務に及び、当国の伯父も疑問があれば太祖に相談した。
- 成長すると身長九尺、上体豊か下体は締まり、目光は人を射抜くようで、三百斤の弓を引いた。塔瑪噶賽特・小黄室韋がまつろわぬのを計略で降し、裕爾庫・烏爾古・六奚・畢沙など諸部を討って克ち、国人は太祖を「額珍錫哩」と号した。
- 唐の天復元年(901年)辛酉、哈陶津(痕徳菫)可汗が立ち、太祖を本部の額爾竒木(夷離菫)とした。専ら征討を担い、室韋・伊済および奚の帥錫爾格を連破して多くの捕虜を得た。冬10月、大迭剌部の額爾竒木を授けられた。
- 明年(902年)秋7月、兵40万で河東・代北を伐ち9郡を攻略、9万5千の生口と無数の駝馬牛羊を得た。9月、潢河の南に龍化州を築城し開教寺を建立。
- 明年(903年)春、女直を伐って服属させその戸300を得た。9月、再び河東・懐遠等の軍を攻略。冬10月、薊北まで進軍し掠奪して還った。これより先、徳祖が捕虜とした奚7千戸を饒楽の清河に移していたが、ここに至り奚迭剌部を分けて13県を創設し、太祖は裕悦(于越)に拝され総知軍国事となった。
- 明年(904年)甲子3月、龍化州の東城を広げた。9月、黒車子室韋を討った。唐の盧龍軍節度使劉仁恭が数万の兵を発し養子趙霸を遣わして拒ませたが、太祖は謀略で桃山下の伏兵によりこれを殲滅し、勝ちに乗じて室韋を大破した。
- 明年(905年)7月、再び黒車子室韋を討伐。唐の河東節度使李克用が通事康令徳を遣わして盟を乞い、冬10月、太祖は騎兵7万で雲州にて李克用と会し、宴の酣で克用は劉仁恭への復讐の援兵を求めた。太祖はこれを許諾し、袍馬を交換して兄弟の約を結んだ。進軍して劉仁恭を撃ち、数州を抜いてその民をことごとく徙した。
- 明年(906年)2月、再び劉仁恭を撃ち、山北の奚を襲って破った。汴州の朱全忠が使者を海路で遣わし書幣・衣帯・珍玩を贈って通聘した。11月、偏師を遣わし奚・霫諸部と東北の未帰服の女直をことごとく破って降した。12月、哈陶津可汗が薨じ、群臣が遺命を奉じて太祖の即位を請い、赫嚕らも勧進したが、太祖は三度これを辞退した末に従った。
元年(907年)
- 春正月庚寅、有司に壇を設けさせ天に燔柴して即位。母蕭氏を皇太后、后蕭氏を皇后に立てる。北宰相蕭実喇・南宰相耶律烏魯斯ら群臣が尊号「天皇帝」「地皇后」を上る。庚子、皇族承約尼氏九帳を第十帳とする詔を出す。
- 2月戊午、従弟達勒達を迭剌部額爾竒木とし黒車子室韋を征して8部を降す。夏4月丁未朔、唐の梁王朱全忠がその主を廃し弑して自立、国号を梁とし使者を遣わし告げる。劉仁恭の子守光がその父を幽閉し自ら幽州盧龍軍節度使を称す。7月乙酉、その兄平州刺史守奇が数千人を率いて降り、平盧城に安置。冬10月乙巳、黒車子室韋を討ってこれを破る。
二年(908年)
- 春正月癸酉朔、正殿にて百官・諸国使の朝を受ける。辛巳、特哩衮を置き族属を統べさせ、皇弟薩喇をこれに任じる。河東の李克用が卒し子の存勗が跡を継ぎ、使者を遣わし弔慰する。夏5月癸酉、薩喇に烏丸・黒車子室韋の討伐を詔す。秋8月壬子、幽州が合歓瓜を進上。冬10月己亥、明王楼を建て、鎮東海口に長城を築き、軽兵を遣わして托歓の室韋への逃亡者を捕らえる。
三年(909年)
- 春正月、遼東に行幸。2月丁酉朔、梁が郎公遠を遣わし来聘。3月、滄州節度使劉守文が弟守光に攻められ援兵を乞い、皇弟錫里・額爾竒木蕭達魯に兵を率いさせ北淖口で守文と会し、横海軍近くで一戦して守光を破る。以後北淖口を会盟口と改名。夏4月乙卯、左僕射韓知古に龍化州大広寺の碑を建てさせ功徳を記す。5月甲申、炭山の北に羊城を置いて市易を通じさせる。冬10月己巳、鷹軍を遣わし黒車子室韋を討って破る。西北の烏梁海部族が輓車人を進上。
四年(910年)
- 秋7月戊子朔、后の兄蕭達魯を北府宰相とする(后族が宰相になるのはこれに始まる)。冬10月、烏満山の奚・庫済および扎嚕特・超黙特らが叛くが討平。
五年(911年)
- 春正月丙戌朔、日食。丙申、西部奚を親征(険阻を頼み叛服常なきため)。ついに東部奚も討ち平らげ、奚・霫の地を尽く有し、東は海、南は白檀、西は松漠、北は潢水に及ぶ5部が版籍に入る。3月、灤河に至り石に功を刻む。薊州を攻略。夏4月壬申、梁に使者を派遣。5月、皇弟埒克・特爾格・伊徳実・安図が謀反、安図の妻訥黙庫がこれを密告、太祖は誅殺を忍びず、諸弟と共に山に登り牲を刑して天地に誓わせ、その罪を赦す。埒克を出して迭剌部額爾竒木とし、訥黙庫を晋国夫人に封じる。秋7月壬午朔、諸蕃使が来貢。8月甲子、劉守光が幽州で僭号し「燕」と称す。冬10月戊午、鉄冶を設置。11月壬午、梁に使者派遣。
六年(912年)
- 春正月、華格を特哩衮とする。2月戊午、劉守光を親征。3月、幽州より帰還。夏4月、梁の朱友珪が父を弑して自立。秋7月丙午、珠巴克を親征し降し数万を捕虜とする。弟埒克に平州攻撃を分兵で命じる。8月壬辰、恩徳山に駐屯、皇子魯呼が誕生。冬10月戊寅、埒克が平州を破って還るが、再び特爾格・伊徳実・安図らと反乱、甲申、梁に致祭の使者を送り、壬辰、北阿嚕山に還る途中で諸弟が兵で道を阻んでいると聞き、軍を南に転じて十七濼へ向かい燔柴、七渡河に至ると諸弟は謝罪の使者を送り、太祖はなお憐れんで自新を許した。この年、両冶を討ち、捕虜とした僧崇文ら50人を西楼に連れ帰り天雄寺を建てて住まわせ、天の助けと武の雄を示した。
七年(913年)
- 春正月甲辰朔、用兵のため朝賀を免除。晋王李存勗が幽州を抜き劉守光を捕らえる。甲寅、王師が赤水城に至り、弟埒克らが降を乞う。太祖は素服で赭白馬に乗り、将軍耶律魯庫実喇堅安巴に武装を解かせて出迎え、慰諭。2月甲戌朔、梁の均王友貞がその兄友珪を討ち殺して即位。3月癸丑、蘆水に至ると弟特爾格図(奚王)が安図と共に千余騎を率い、入朝と偽って来朝、太祖は反逆を怒って拘禁し、部衆を諸軍に分隷させる。埒克はその衆を率いて伊蘇済勒淀に至り天子の旗鼓を備えて自立を図るが、皇太后が密使を送り退去を諭す。折しも瑪古納古爾が偽って車駕が至ると触れ回ると衆は驚き潰走、太祖はこれを追撃、埒克の党伊徳実は行宮の輜重廬帳を焼いて皇后を襲うが皇后は舒古魯を送ってかろうじて天子の旗鼓を取り戻す。党の珊蘇庫が再び西楼を掠め明王楼を焼く。太祖は土河に至り馬を休ませ、諸将は急追を求めるが「遠く逃げれば故郷を懐うようになり心が離れる、その時こそ乗ずべき」と述べて待つ。
- 夏4月戊寅、埒克を北へ追う。己卯、諸弟が木葉山で射鬼箭の呪詛を行ったと聞き、叛人嘉哩を捕らえて同じ法で呪詛を返す。達倫淀に至り軽騎を選んで布扎爾河でその党・輜重・生口をことごとく獲得。室韋・托歓の酋長らに伏兵を敷かせ、北宰相蕭達魯を先鋒として進撃、埒克軍と激戦の末に大破し、車乗・廬帳を焼いて逃走した埒克軍を柴河まで追い、途中で神帳を捨てて逃げたのを見て太祖は拝奠した。捕らえた生口は本土へ返した。5月、昭図河で大雨に遭うが、北宰相達年に先渡りさせ、癸丑、埒克・尼嚕古を榆河で捕らえたと奏報、前北宰相蕭舒嚕・伊徳実は自剄したが死にきれず。黒白羊で天地を祭る。壬戌、埒克・尼嚕古が行在に至り縄で自ら縛り羊を牽いて望拝する。
- 大嶺への帰途、輜重が続かず士卒は馬駒を煮て野菜を採って食い、家畜も多く途中で斃れ、物価は十倍に上がった。埒克を「巴」と改名。庫哩に至り青牛白馬で天地を祭り、生口600・馬2300を諸軍に分賜。6月辛巳、榆嶺に至り、実喇県人繅古が法を犯し民を残害したとして磔にする。都庵山に登り先世竒善可汗の遺跡を望んで嘆息、獄官聶哷が擅に大校を造り人を苦しめ死者まで出したと聞き誅殺。壬辰、狼河に至り逆党伊勒穆爾を生き埋め、掠奪された俘虜を裕庫哷から奪還。庚子、阿敦濼に至り、養子納喇蘇が諸弟の叛に加わったとして射殺、残党6千は軽重により処断。石嶺西に至り、軍が食に窮したため棄てた兵仗を北府兵に検分させて返還。額爾竒木尼嚕古が叛に加わったのを恥じ、自ら投崖して死ぬ。
- 秋8月己卯、竜眉宮に幸し、逆党29人を轘刑にし、その妻子を功臣に賜う。掠奪された財物を主に返させ、返せない者にはその部曲を賜って償わせる。9月壬戌、西楼を発つ。冬10月庚午、赤崖に駐屯、和州回鶻が来貢。癸未、逆に加わった者を誅し、群臣に滞訟を分決させ、韓知古に記録、珠勒呼に捕亡を掌らせる。11月、木葉山を祠り、扎固山で高齢者を訪ね朝政・吉凶の儀を定める。12月戊子、蓮花濼で燔柴。
八年(914年)
- 春正月甲辰、赫嚕を迭剌部額爾竒木、呼哩を特哩衮とする。裕庫哷部人塔勒満が逆党布呼伊拉斉ら17人を捕らえ献上、太祖自ら鞫問し首悪布呼を杖殺、他は釈放。裕悦蘇呼の子華格が度々叛謀を企てるも太祖は寛容にしていたが、改悛しないため父老・群臣を召してその罪を正し子とともに戮し、財産を衛士に分与。逆党300余人の獄が成ると、太祖は「人命は至重、死せば復生せず」として宴を一日設け、各自の生前の好みに任せて歌い舞い戯射角觝させ、翌日に軽重で処断。首悪の埒克・次の特爾格は「なお弟である」として杖のみで赦す。伊徳実・安図は埒克に使われた庸弱の者として罪を赦す。前裕悦哈達拉の子嘉哩・埒克の妻実喇勒済実は逆謀に与ったとして絞殺、伊徳実の妻聶哷(脅従)・安図の妻訥黙庫(密告の功)は免ぜられる。太祖は左右に、諸弟が敏黠なのに姦を蓄え、婦人を頼りに悪を為したことを嘆く。北宰相舒嚕の妻伊埒達衮が叛に加わり病死したのは天誅であるとし、嘉哩は幼少より共に寝食した仲であったのに恩に背いたことを痛惜する。秋7月丙申朔、有司が諸帳族の逆謀加担者300余人の罪状を奏し、みな棄市とする。太祖は「人を死に至らしめるのは望むところではないが、剽掠が甚だしく万馬あった民間が皆徒歩となるほどの惨状のため已むを得ず誅した」と嘆く。冬10月甲子朔、明王楼の基に開皇殿を建てる。
九年(915年)
- 春正月、烏爾古部の叛を討平。夏6月、幽州軍校斉行本がその族と部下男女3千人を率いて降を請い、検校尚書左僕射に任じ「烏雲」の名を賜って廩食させるが数日で逃亡、幽帥周徳威がこれを匿い、索める使者への応対が不遜だったため南征を議す。冬10月戊申、鴨淥江で釣りをする。新羅・高麗が使者を遣わし貢献、呉越王銭鏐が滕彦休を遣わして来貢。この年、君基太一神がしばしば現れ、その像を図らせる。
神冊元年(916年)
- 春2月丙戌朔、龍化州にて迭剌部額爾竒木赫嚕らが百僚を率いて尊号を請う、三度の上表でついに許す。丙申、群臣・諸属国が州の東に壇を築き尊号「大聖大明天皇帝」「応天大明地皇后」を上り、大赦して建元「神冊」とする。壇を築いた際に地から金鈴を得たため「金鈴岡」と名づけ、壇の側の林を「冊聖林」と名づける。3月丙辰、迭剌部額爾竒木赫嚕を「阿勒達爾裕悦」とし百僚に恩賞、酺を3日賜る。皇子貝を皇太子に立てる。夏4月乙酉朔、晋の幽州節度使盧国用が来降、幽州兵馬留後とする。甲辰、梁が郎公遠を遣わして来賀。6月庚寅、呉越王が滕彦休を遣わして来貢。
- 秋7月壬申、突厥・托歓・党項・小蕃・沙陀の諸部を親征しことごとく平定、その酋長・戸1万5600、鎧甲兵仗器服90余万、駝馬牛羊は算えきれないほど捕獲。8月、朔州を抜き節度使李嗣本を捕らえ、竒塜の南に功を刻む。冬10月癸未朔、勝ちに乗じて東進。11月、蔚・新・武・媯・儒5州を攻めて斬首1万4700余級、代北から河曲まで陰山を越えて全域を領有、武州を帰化州、媯州を汗州と改称し西南面招討司を置いて有功者を任じる。蔚州攻囲の際、敵楼が自壊し軍が驚喜して乗じ、たちまち城を破った。梁・呉越の使者がこれを目撃し、滕彦休に「舒嚕」の名を賜う。12月、山北8軍を収める。
神冊二年(917年)
- 春2月、晋の新州裨将盧文進が節度使李存矩を殺して来降、その城を進攻すると刺史安金全は遁走、盧文進の部将劉殷を刺史とする。3月辛亥、幽州を攻める。節度使周徳威が幽・并・鎮・定・魏5州の兵で居庸関の西で拒み、新州の東で合戦し大破して斬首3万余級、李嗣本の子武を殺す。后弟阿古斉を統軍、舒嚕を先鋒として関を出て燕趙を掠めるも敵に遇わず還る。己未、裕庫哷が叛くと舒嚕に討たせる。夏4月壬午、幽州を包囲するが下せず。6月乙巳、城中に煙火のような気が見えると太祖は「未だ攻めるべきでない」として暑さのため班師、赫嚕・盧国用を守将に残す。埒克とその子賽音伯哩が叛いて幽州に入る。秋8月、李存勗が李嗣源らを遣わし幽州を救援、赫嚕らは兵少なく退く。
神冊三年(918年)
- 春正月丙申、皇弟安図を大内特哩衮とし雲州・西南諸部の攻略を命じる。2月、達旦が来聘。癸亥、皇都を築城、礼部尚書康黙記を版築使とする。梁・晋・呉越・渤海・高麗・回鶻・準布・党項および幽・鎮・定・魏・潞等州がそれぞれ使者を遣わして来貢。
- 夏4月乙巳、皇弟特爾格の謀叛が発覚し誅を免れないところ、諸戚が助命を請う。太祖は元来嫌っていた弟の妻・伊徳実の妻尼嚕古に「代わって死ぬなら赦す」と命じ、尼嚕古は壙中で自縊、奴の農古・叛人額爾古済も生き埋めにされ、特爾格は赦された。5月乙亥、孔子廟・仏寺・道観の建立を詔する。秋7月乙酉、裕悦赫嚕が薨じ、太祖は震悼して3日輟朝、賻贈を厚くする。冬12月庚子朔、遼陽故城に幸す。辛丑、北府宰相蕭達魯が薨じる。戊午、裕悦赫嚕の弟裕勒沁を迭剌部額爾竒木、蕭阿古斉を北府宰相とする。甲子、皇孫鄂約が誕生する。