出自と生い立ち
- 倡后は邯鄲の遊女で、趙の悼襄王の后である。かつて一族を乱した女であった。
悼襄王との結婚
- 夫を失っていたところ、悼襄王はその美しさゆえにこれを娶った。李牧は「なりません。女の不正は国家が覆り安寧を失う原因となります。この女はすでに一族を乱しており、大王はそれを畏れないのですか」と諫めたが、王は「乱れるかどうかは私の政治次第だ」と言い、ついに娶った。
太子の廃立と趙国の滅亡
- 悼襄王の后(前后)はすでに子の嘉を生み太子としていた。倡后は妃として入ると子の遷を生んだ。倡后は王の寵愛を受けると、密かに前后と太子を王に讒言し、人を遣って太子に罪を着せた。王はついに嘉を廃し遷を太子に立て、前后を退けて倡姫を后に立てた。
- 悼襄王が薨じると遷が立ち、幽閔王となった。倡后は淫らで不正であり、春平君と密通し、秦から多くの賄賂を受け、王に良将武安君李牧を誅殺させた。その後、秦の軍がまっすぐ攻め入っても遷はこれを防ぐことができず、ついに秦に捕らえられ、趙は滅んだ。
- 大夫たちは倡后が太子を讒言し李牧を殺したことを恨み、倡后を殺してその一族を滅ぼし、共に嘉を代に立てた。七年間持ちこたえたが秦に勝てず、趙はついに滅んで郡となった。
- 『詩経』に「人でありながら礼がなければ、死ぬのを待つほかに何があろうか」とあるのは、この倡后のことをいう。
史論
- 頌に曰く、趙の悼倡后は貪欲で飽くことを知らなかった。后と太子を廃し、偽りをもって誠実さを欠いた。春平君と淫らに通じ、欲するままに振る舞った。賄賂を受けて趙を滅ぼし、自らも死んで国を滅ぼした、という。