出自と生い立ち
- 楚の考烈王の李后は、趙の人李園の妹で、楚の考烈王の后である。
春申君との謀
- はじめ考烈王には子がなく、春申君はこれを憂えていた。李園は春申君の家臣であったが、自分の妹を春申君に差し出し、身ごもったことを知ると、妹は密かに春申君に「楚王があなたを重んじることは、兄弟でさえ及びません。しかし今あなたが楚の相となって三十年余り、王には子がありません。王が亡くなれば必ず兄弟が立てられ、新たな王が立てば自らの近しい者を貴ぶでしょう。そうなれば、あなたが長くその寵を保てるでしょうか。それだけでなく、あなたは長く政を執ってきたため王の兄弟に対して失礼も多いはずです。もし王の兄弟が本当に立てば、禍はあなたの身にまで及び、相印や江東の封地を保てましょうか。今、私は身ごもっていますが、まだ誰も知りません。私があなたの寵を受けてまだ間もないうちに、あなたの重みをもって私を楚王に差し出せば、王はきっと私を寵愛するでしょう。天のご加護で男子を得られれば、これはあなたの子が王となることであり、楚国はことごとくあなたのものとなります。これに比べれば、いつ測り知れぬ罪に問われるか分からぬ今の身とどちらがよいでしょうか」と言った。
- 春申君はこれを大いに是とし、妹を家から出して謹んで別宅に住まわせ、考烈王に紹介した。考烈王は召してこれを寵愛し、子の悼が生まれ太子に立てられた。妹は后となり、李園は貴ばれ権勢を振るうようになったが、口封じのために春申君を殺そうと士を養った。
春申君の殺害とその後
- 考烈王が死ぬと、李園は春申君を殺しその一族を滅ぼした。悼が立ち、これが幽王である。
- 后にはさらに考烈王の遺腹の子猶がおり、これが立てられ哀王となった。考烈王の弟公子負芻の一味は、幽王が考烈王の実子でないことを聞き知ると哀王を疑い、哀王と太后を襲って殺し、李園の一族をことごとく滅ぼして負芻を王に立てた。
- 五年後、秦が楚を滅ぼした。
- 『詩経』に「盗人の言葉はたいへん甘く、乱れはこうして激しくなる」とあるのは、この李后のことをいう。
史論
- 頌に曰く、李園の妹は春申君のもとから身を起こした。考烈王に子がなかったため、うまく身を差し出すことができた。重んじられて宮に入り、ついに世継ぎの母となったが、立てられた後にもとの恩を裏切り、宗族は滅び弑された、という。