出自と生い立ち
- 趙の霊王の呉の女は、号を孟姚といい、呉広の娘で、趙の武霊王の后である。かつて武霊王は韓王の娘を夫人に娶り、子の章を生み后に立て、章を太子とした。
夢と孟姚の入内
- 王はかつて処女が瑟を鼓して歌う夢を見た。「美人は輝かしく、その顔は苕(凌霄花)の花のよう、運命よ運命よ、天の時に出会って生まれたが、私を娶る者はいない」という歌であった。
- 後日、王が酒宴で楽しみながらしばしばこの夢の話をし、その人に会いたいと願った。呉広はこれを聞き、后を通じてその娘(孟姚)を王に入内させた。孟姚はたいへんな美貌で、王は寵愛して離れがたくなり、数年後に子の何を生んだ。
后・太子の廃立
- 孟姚はしばしば、后には淫らな心があり太子には慈愛と孝行の行いがないと仄めかした。王はついに后と太子を廃し、孟姚を恵后に立て、何を王とした。これが恵文王である。
主父の幽閉死
- 武霊王は自ら主父と号し、章を代に封じ安陽君と号させた。四年後、群臣が参内した際、安陽君(章)も朝したが、主父が傍らからこれを見ると、群臣・宗室が章のうらぶれた様子に、かつての臣下であった弟に仕える姿を見て、心中これを憐れんだ。
- このころ恵后はすでに死んで久しく寵愛も衰えていたので、主父は趙を分けて章を代の王にしようと考えたが、決めきれずに終わった。
- 主父が沙丘の宮に遊んだ際、章はその一味と共に乱を起こし、李兌は四邑の兵を起こして章を撃った。章は主父のもとへ逃げ込み、主父はこれを匿った。李兌は兵をもって主父の宮を包囲した。章を殺すと、味方の者たちは「章を攻めるために主父を囲んだのだ。今ここで兵を解けば我らは討たれよう」と謀り、そのまま主父を包囲し続けた。
- 主父は出ることも食を得ることもできず、雀を捕らえて食べていたが、三月余りでついに沙丘宮で餓死した。
- 『詩経』に「流言をもって答え、賊は内より攻め入る」とあるのは、不善が内から生じることをいう。
史論
- 頌に曰く、呉の女は苕のように美しい顔で、趙の霊王の夢に現れた。寵愛を受けると心に惑いが生じ、后を廃して戦を起こした。子の何が跡を継ぎ、主父は沙丘に閉じ込められ、国はこうして乱れ傾いた、という。