出自と楚昭王の遊興
- 楚昭越姬は越王句踐の娘で、楚の昭王の姫である。昭王が遊宴の際、蔡姫を左に、越姫を右に置き、自ら四頭立ての車を駆って附社の台に登り、雲夢の沢を望んだ。士大夫たちが狩りを楽しむのを見て、王は二人の姫に「楽しいか」と問うた。
- 蔡姫は「楽しゅうございます」と答え、王が「そなたとこのように生き、このように死にたい」と言うと、「わが国の寡君は民の力をもって王の馬前に仕え、私も苞苴(貢物)としてこの身を差し出しました。今や妃嬪に准ぜられ、生きるも死ぬも共にありたいと願います」と答えた。王はこれを史官に記録させた。
- 続けて越姫にも同じ問いをしたが、越姫は「楽しいことは楽しいのですが、これがいつまでも続くとは思えません」と答えた。王が重ねて問うと、越姫は「昔わが先君荘王は三年間淫楽にふけり政を怠りましたが、後に改め天下に覇を唱えました。王も先君に倣い、この楽しみを改めて政に励まれるものと思っておりました。しかし今そうではないのに、私に死をもって従うよう求められるのは承服しかねます。婢子(わたくし)は寡君より束帛と馬をもって差し出され、貴国の太廟で受けられた身であり、死をもって約したわけではございません。婦人は死をもって主君の善を彰し寵を高めるものと聞いておりますが、闇のうちに軽々しく死んで栄誉とするとは聞きません」と述べた。王は目覚め、越姫の言葉を敬いつつも、なお蔡姫を寵愛し続けた。
昭王の病と越姫の自死
- 二十五年後、王が陳を救援した際、二人の姫も従軍した。王は軍中で病を得た。赤い雲が太陽を挟み飛ぶ烏のような形をなし、周の史官は「これは王の身に禍を及ぼすが、将相に移すことができます」と占った。将相たちは自らの身をもって神に祈ろうとしたが、王は「将相は私の股肱である。禍をそちらに移してどうして良いことがあろうか」と聞き入れなかった。
- 越姫は「王のこの徳の大きさをもって、私は従いましょう。先日の遊楽は戯れであったため従うことを許しませんでしたが、王が礼に立ち返られた今、国人は皆王のために死のうとするでしょう。まして私が従わずにいられましょうか。地下で先んじて狐狸を追い払わせていただきます」と述べた。王は「先日の遊びは戯れであった。もし本当に死ねば私の不徳を示すことになる」と言ったが、越姫は「あの日、口には出さずとも心では既に約束しておりました。信ある者は心に背かず、義ある者は事を虚しく設けません。私は王の義のために死ぬのであり、王の好みのために死ぬのではありません」と答え、自殺した。
- 王の病は重く、王位を三人の弟に譲ろうとしたが受けられず、王は軍中で薨じた。蔡姫は結局死ぬことができなかった。王の弟の子閭は子西・子期と謀り、「母が信ある者ならば、その子も必ず仁がある」と言い、兵を伏せて越姫の子である熊章を迎え立てた。これが恵王である。その後兵を収めて昭王を葬った。
史論
- 君子は越姫を「信あって義に死ぬことができた」と評した。『詩経』に「徳の音、違うことなく、あなたと共に死のう」とあるのは、越姫のことをいう。
- 頌に曰く、楚の昭王が遊楽の中で二人の姫に死を約させようとしたとき、蔡姫はそれを許したが越姫は礼を守った。ついに越姫だけが節に死に、群臣はその美徳を称えた。二人の姫の徳はまったく異なっていた、という。