列女傳卷一 衛姑定姜

出自と息子の妻を送る詩

  • 衛姑定姜は衛の定公の夫人で、公子の母である。公子は妻を娶ってのちに死去し、その妻に子がなかった。三年の喪が明けると、定姜はその嫁を実家に帰すことにし、自ら野まで見送った。
  • 定姜は恩愛と哀しみに満ち、立ち尽くして遠く見送り、涙を拭った。そして「燕燕(つばめ)飛び去り、その羽は乱れている。あの子が帰るのを、遠く野まで送る。見えなくなるまで見つめ、涙は雨のように流れる」という詩を作った。さらに「亡き夫を思うがゆえに、私を慰めてくれた」という詩も作った。君子は定姜の慈しみが情の厚さゆえと評した。

孫林父の帰還を許す

  • 定公は孫林父を憎み、孫林父は晋に出奔した。晋侯が郤犨を遣わして帰国を求めると、定公は断ろうとしたが、定姜は「不可です。彼は先君の宗卿の後継者です。大国からの要請を拒めば衛は滅びるでしょう。憎んでいても滅びるよりはましです。君は耐えてください。民を安んじ宗卿を寛大に扱うのがよいのではないですか」と諫め、定公はついに彼を復職させた。君子は定姜が遠く災いを見通す力を持っていたと評した。

献公への諫言と追放

  • 定公が没し、敬姒の子・衎が立って献公となった。献公は喪に服す間も態度がおごそかでなく、定姜はこれを見て食事も喉を通らず、「これは衛国を滅ぼす兆しだ。まず善人を害するだろう。天が衛国に禍をもたらしている。私が鱄(献公の弟、子鮮)に社稷を主どらせることができなかったのが悔やまれる」と嘆いた。大夫たちはこれを聞いて恐れ、孫文子は以後、貴重な器物を衛国に置かなくなった。定姜は鱄を立てたいと願ったが叶わなかった。
  • のちに献公は乱暴になり定姜を侮辱するようになった。ついに献公は追放され、国境まで逃れると祝宗に自らの無罪を宗廟に告げさせようとした。定姜は「不可です。神を欺くことはできません。罪があるのにどうして無罪だと告げられましょうか。しかも公の行いには、大臣を差し置いて小臣と謀った罪、先君が師傅とした衛の卿を軽んじた罪、私に対して先君に仕えるべき身でありながら侍女のように酷使した罪、この三つの罪があります。ただ出奔したことだけを告げなさい、無罪とは告げてはなりません」と述べた。君子は定姜が言葉で人を教え導く力を持っていたと評した。のちに鱄の尽力によって、献公は復位することができた。

占いの解釈

  • 鄭の皇耳が軍を率いて衛に侵攻すると、孫文子は追撃の是非を占い、その卦を定姜に見せた。定姜は「山林のような形、これは出征する夫がその雄々しさを失うことを示す」と解いた。定姜はさらに「出征する者が雄々しさを失うのは、こちらが敵を防ぐ利があることを示す。大夫はよく考えるがよい」と述べ、衛人は追撃して犬丘で皇耳を捕らえた。君子は定姜が事情に通じていたと評した。

史論

  • 頌に曰く、衛姑定姜は嫁を送るときに詩を作り、恩愛と慈しみをもって涙ながらに見送った。たびたび献公を諫めてその罪を明らかにした。聡明で見識に優れ、文辞にも麗しかった、という。