南史卷八十 列傳第七十賊臣 留異

留異

  • 留異は東陽長山の人、代々郡の名家であった。異は言動を巧みに取り繕う人物で、悪少年を多く集めて郷里で威を振るい、守宰も持て余していた。梁で晋安・安固の県令を歴任し、侯景の乱で郷里に戻って兵を募った。太守沈廵が入朝の援護のため郡を異に譲ると、異は兄の子超に郡を守らせ自らは兵を率いて廵に従ったが、台城が陥ちると梁の臨城公大連の下で軍務を委ねられた。
  • 異は残虐で遠謀に乏しく威福を私し人々に嫌われた。景の将宋子仙が浙江を渡ると異は郷里に逃げ帰り、間もなく衆を率いて子仙に降り、郷導として大連を捕えさせた。邵陵王綸はこれを聞き「留の字は違うの意にも通じる、その名の通り逆賊に与するのは道理」と評した。景は異を東陽太守とし、その妻子を人質に取った。行臺劉神茂が挙兵し景に叛いた際、異は表面上神茂と組みつつ密かに景と通じ、神茂が敗死しても異だけは処刑を免れた。
  • 景平定後、王僧辯は異に東揚州の慰撫を委ねたが、異はなお険阻な地に拠り威を振るい続けた。魏が荆州を陥すと王僧辯は異を東陽太守とし、陳の文帝が会稽を平定した際には糧を献じる一方で郡内での権勢を独占した。紹泰二年(556年)、応接の功で縉州刺史・東陽太守・永嘉県侯に封ぜられ、文帝の長女豊安公主が異の第三子貞臣に嫁いだ。
  • 永定三年(559年)、南徐州刺史に召されたが遷延して赴かず、文帝即位後に改めて縉州刺史・東陽太守とされたが、長史王澌を朝廷に遣わすたびに「朝廷は弱体」と讒言され、異は両属の態度を取り王琳とも密かに通じた。王琳敗北後、文帝は左衛将軍沈恪を新太守として異の郡を接収させようとしたが、異は恪と戦ってこれを破り、表を上げて詫びた。朝廷は当時湘・郢の平定に忙殺されており異を懐柔していたが、異は討伐を予期して下淮・建徳に兵を配して江路を守った。
  • 湘州平定後、文帝は詔でその罪を暴き司空侯安都に討伐させた。異は第二子忠臣とともに陳寳應のもとへ逃れたが、寳應の平定に伴い異も捕えられ建康の市で斬られ、子弟もほとんど処刑された。ただ豊安公主に嫁いだ第三子貞臣のみ助命された。