出自と行状
- 施文慶、出自不詳。家は代々吏門であったが、文慶は学を好み書史を渉猟した。陳後主が東宮にあった頃から仕え、即位後は中書舎人に抜擢された。始興王叔陵の乱に隋の軍が国境に迫る中、軍国事務は多く倉卒に起こったが、文慶は聡敏強記で吏職に明るく心算口占が速やかであったため大いに親幸された。太建以来、吏道が疎簡であったのを文慶は力を尽くして振粛し、沈客卿・陽恵朗・徐哲・暨恵景らを引き吏能ありとして推挙したが、いずれも大体を達せず苛碎な督責と聚斂で王公大人からも疾まれた。しかし後主は文慶を有能として重んじ太子左衛率・舎人を歴任させた。
- 禎明三年(589年)、湘州刺史晋熙王叔文が久しく人心を得ていたことを後主は上流を拠点にすることを疑い、自らも群臣との恩が薄いことを恐れ、文慶を都督湘州刺史に抜擢し精兵を配して西上させようとし叔文を還朝させたが、文慶はこれを喜びつつも中央を離れる不安から沈客卿を後任に推し、二人はしばらく機密を共に掌った。折しも隋軍が大挙して分道進撃する中、尚書僕射袁憲・驃騎将軍蕭摩訶らが京口・采石にそれぞれ五千の兵と金翅二百艘を配し防備すべしと請うと、文慶と客卿は自らの都督職を廃すことになるのを恐れ、また客卿は文慶の任を奪って専権を得たいと考え、「必ず論議があれば面陳せず文啓を作り即座に通奏せよ」と提案し、袁憲らも同意した。二人が啓を後主に奏すると「これは常事、辺城の将帥で当たれる、船兵を出すのは驚擾を招くだけだ」と却下された。隋軍が江に迫り間諜が頻繁に至り憲らが慇懃に再三奏請しても、文慶らは「元会が迫り太子も従うことが多い、今兵を出せば式典に支障が出る」「出兵すれば近隣に国の弱さを見せる」と反対を続けた。後に江総が賄賂で動かされ後主に出兵を勧めても文慶らは異論を退け、事は付外詳議のまま決せずに隋師が渡江した。
- 後主は怯懦で軍事に達せず昼夜啼泣し台内の処分を文慶に一任した。文慶は諸将が自分を疾んでいることを知り、功を立てられては困ると「これらは怏々として服従せぬ者、事機に迫られてどうして信じられようか」と奏し、諸将の啓請はことごとく行われなかった。まもなく文慶に樂游苑への出兵が命じられたが陳は滅び、隋の晋王楊広は文慶が委任を受けながら不忠で諂佞を尽くし帝の耳目を蔽ったとして、比党数人とともに石闕前で斬り百姓に謝した。